関ヶ原の遅延エピソードなどで、評価があまり高くない家康の息子・秀忠。作家の濱田浩一郎さんは「『徳川実紀』には秀忠が家康の言うことをよく聞く孝行者で、情け深く慎重だと記されている。父・秀吉に早く死なれた秀頼とちがって、家康が江戸幕府の基盤を作ってくれたこともあり、二代将軍としては適性があったのではないか」という――。

秀吉・家康というふたりの天下人の後継者問題

大河ドラマ「どうする家康」においては、徳川家康の後継者・秀忠を俳優の森崎ウィンさんが演じています。秀忠は、徳川幕府の二代将軍ではありますが、父の家康と、子の家光(三代将軍)に挟まれて、歴史教科書などでは、影が薄い感があります。

一方、豊臣秀頼は、天下人であった父・豊臣秀吉の亡き後、豊臣家を継ぎますが、最終的には、徳川氏と対立することになり、大坂の陣を経て、滅亡してしまいます。徳川家と豊臣家の「二代目」は、どのような人物だったのでしょうか。先ず、徳川秀忠は、家康の三男として、天正7年(1579)に生を受けます。母は、家康の側室・西郷局。「どうする家康」では、女優の広瀬アリスさんが演じていました。

前述のように、秀忠は家康の三男。本来ならば、徳川家を継ぐ立場ではありませんでした。しかし、家康の嫡男・松平信康(母は、家康正室の築山殿)は、謀反の疑いありとして、家康により、切腹に追い込まれていました(1579年)。そして、家康の次男・秀康は、秀吉の養子や結城家の養子となるなどして、徳川家から出されていました。よって、信康が生きていたならば、信康が二代将軍となった可能性が高いでしょうが、以上のような経緯から、秀忠が家康の後継者となったのです。

「徳川秀忠像」
「徳川秀忠像」(画像=松平西福寺所蔵/Blazeman/PD-Japan/Wikimedia Commons

二代将軍・秀忠は家康の言うことを聞く「いい子ちゃん」か

『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)は、信康や結城秀康、そして松平忠吉(秀忠の同母弟)を「何れも、父君(家康)の神武(神のように優れた武徳)の性質を持っており、武功・雄略、雄々しく、世に著しい」と絶賛しています。ところが、秀忠については「幼少の頃より、思いやりがあり、情け深く、孝行で、慎み深い」と記されているのです。他の兄弟のように、武辺ではないとしているのです。そればかりか、家康の教えを「畏み、守らせられ」、家康の言うことに些かも反抗しなかったと書かれています。今風に言えば「いい子ちゃん」といったところでしょうか。

天正18年(1590)、秀忠は人質として、豊臣秀吉に差し出されます。秀忠の幼名は「長丸」でしたが、元服の際に、秀忠と改名します。秀忠の「秀」は秀吉の「秀」を与えられたのです(偏諱を賜う)。このとき、秀吉は「大納言(家康)は良い子をもたれた。年の程よりは、とても大人しい」と言ったとされます(『徳川実紀』)。秀吉も秀忠を大人しい性質と見做していたことになります。