57歳のときの生まれた秀頼を溺愛

文禄二年(1593)五月、秀吉は再び淀殿が妊娠したことを正室のねねから手紙で知らされた。それに対して秀吉はねねに「淀殿が懐妊したとのこと、めでたいことである。ただ、私は子供を欲しいとは思わない。私の子は鶴松だけだったが、もう遠くへ行ってしまった。だから今度生まれてくる子は、淀殿だけの子である」と返信している。

正室への遠慮もあったのだろう、あえて喜びを抑えているが、五十代後半になっての側室の懐妊の知らせが、うれしくないはずはなかろう。しかも、八月に生まれた子は男児であった。そう、のちの豊臣秀頼(拾)である。

秀吉は淀殿に宛てて「秀頼に乳をたくさん飲ませなさいね。あなたも母乳がよく出るように、飯をたくさん食べなさい」と記し、また別の手紙では、「秀頼はたくさん乳を飲んでいるか。なるべくたくさん乳を飲ませなさいね」などと書いている。

秀頼本人に宛てた手紙も紹介しよう。

「本当に愛おしい。やがてお前のもとに行って、口を吸ってあげたい。私の留守中に、他の人に口を吸わせてはだめだよ」

この手紙から、秀吉は、息子の秀頼に会うたびに接吻していたことがわかる。五十七歳で誕生した子が、可愛くて仕方がなかったのである。

秀次を高野山に追いやり切腹を命じる

やがて秀吉は、どうしても秀頼を跡継ぎにしたいと考えるようになってしまう。そこで関白秀次に対して、日本全土を五つに分け、そのうち五分の一を秀頼に与えてほしいとか、秀頼を秀次の娘と結婚させ、その婿養子にしてほしいと言い始めたようだ。

当然、秀次は面白くないし、自分の権力をうばわれるのではないかと警戒もしたようだ。文禄四年(1595)七月三日、秀次のその予感は当たってしまう。突然、自身が住む聚楽第に石田三成ら秀吉の奉行がやって来て、謀反計画の有無を問いただしてきたのだ。

驚いた秀次はこれを否定し、誓紙を差し出して無実を主張した。それから五日後、秀次は秀吉のいる伏見城に来るように言われた。そこで、仕方なく出向いたところ、城内ではなく城下の木下吉隆の屋敷に案内された。そして秀吉から「高野山へ登れ」と命じられたのである。罪を犯しても高野山に入ることで、すべて許されるという慣行があった。

身に覚えはなかったが、秀次は秀吉に逆らわずおとなしく高野山に入った。しかし、それを追いかけるように、福島正則ら使いの者が現れ、秀次に切腹を命じたのだ。こうして秀次は、自刃して果てた。

一説には、秀次が抗議の意味を込めて、勝手に腹を切ったともいわれる。

高野山 金剛峯寺
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