相手をモノのように扱っていないか

ただ、人にはそれぞれの事情もある。じつは私には、もっと若かった過去に、親ほどの年齢の女性患者さんから数年にわたって執拗しつようなストーカー行為を受けたというつらい経験があり、そのトラウマが今も心の奥底に沈澱している。

以来、年上の女性患者さんなどから少しでも好意的な気配を感じとっただけでも、つい身構えるようになってしまう自分がいるのも事実だ。しかし触られてしまう場合の多くは突然だから、未然に防ぐことはいつも不可能に近い。

「女性にさわってもらえるなんていいじゃないか」と言う人もいるかもしれないが、決してそんなことはない。50代の男性であっても、突然人にさわられることは怖くもあるし、不快でもあるのだ。

そもそも「他人の身体に自分の手を接触させる行為」は、安易におこなわれるべきでないケースのほうが圧倒的に多い。

とくに「さわる」という行為は、「さわる側」がなんらかの意図を持ったうえで、相手に配慮する以上の意志をもって一方的におこなわれることが多いのではなかろうか。いわばそれは、相手をひとりの意思を持った人間ではなく、モノのように扱っているに近い行為であるともいえる。

痴漢やセクハラは、その典型だ。相手の不快感など一切配慮することなく、我欲のままにおこなわれる行為だからだ。そこには対象を尊厳ある人間として扱う気持ちは微塵もない。この場合の「さわる」は、「さわられる側」からすれば、まさしく「暴力」である。

遠慮なくさわってくる人は、なぜさわるのか

私自身、患者さんやその家族に幾度となくボディタッチを受ける身として、人の体に抵抗なくさわる人の心境を自分なりに考えてみた。

医師として診察するにあたり、こちら側から患者さんのパーソナル・スペースに立ち入ることは日常だ。たとえば医師による「触診」は、症状の把握や診断には必要不可欠なものだし、生活習慣を確認するために食べているものや好きなことを聞くこともある。しかしそれはあくまで「業務」であるし、立ち入る際には当然ながら同意を得る。

もちろん仏頂面では患者さんを怖がらせてしまうから、穏やかな表情で接することを心がけてもいる。もしかすると、その物理的・心理的な距離の近さを「親密さ」の表現であると誤解されてしまっているのかもしれない。また「先生が触ってくるのだから、触りかえしてもかまわない」と思われている可能性もある。

もちろんそこに「悪気」がないことくらいは理解できる。むしろ私にたいする好意の表れと受け止めれば良いだけなのかもしれない。患者さんやその家族には、嫌われるより好かれたほうがいいに決まっている。ついそのように考えてしまうものだから、むげに「やめてくれ」と言えないのだろうと、とりあえずの自己分析をしている。