徳川家康が石田三成らを破った関ヶ原の戦いは「天下分け目の合戦」といわれている。歴史評論家の香原斗志さんは「それは間違っている。関ヶ原の戦いは豊臣政権内の内部抗争の末に起きたものだ。戦いに勝利した家康が天下をとったわけではない」という――。
関ケ原古戦場
関ケ原古戦場(写真=Drivephotographer/CC-Zero/Wikimedia Commons

「東軍の勝利」=「家康の勝利」ではない

 周知のとおり、関ヶ原合戦は「天下分け目の戦い」と呼ばれる。徳川家康が率いる東軍と石田三成が率いる豊臣方の西軍との決戦で、勝利した徳川の覇権が確立された――。多くの人がそう思っているのではないだろうか。

だが、現実には、関ヶ原合戦は豊臣政権内の内部抗争の末に起きたもので、家康はあくまでも豊臣政権の大老として戦った。だから、関ヶ原合戦が大きな節目になったのはたしかだが、東軍の勝利によって、ただちに家康の天下になったわけではないのである。

それはどういうことか。関ヶ原合戦とはどんな戦いだったのか。それを考えるために、合戦にいたる経緯を確認しておきたい。

慶長3年(1598)8月18日、豊臣秀吉が伏見城で死去すると、五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家)の10人が、豊臣秀頼への忠誠を誓う起請文をしたためた。

翌慶長4年(1599)1月、家康はほかの9人から詰問される。秀吉が大名同士の私婚や同盟を禁じたのに、家康が3人の大名と姻戚関係を結んだからだ。家康を糾弾する三成と家康を支持する大名とが一触即発の状態になったが、なんとか収まり、家康の行為は不問に付された。

そこに閏3月3日、前田利家が死去して、ふたたびきな臭くなる。その翌日、三成ら五奉行の政治運営に不満をもつ細川忠興や福島正則ら7人が大坂で三成を襲撃。家康の調停で収まったが、三成は近江(滋賀県)の佐和山城(彦根市)で隠居することになった。ここまではNHK大河ドラマ「どうする家康」の第40回「天下人家康」(10月22日放送)で描かれた。