圧倒的兵力の豊臣軍が兵糧不足に陥ったのはなぜか

(豊臣軍は)陣中の兵粮が少なくなり、野老(ヤマノイモ科の「ところ」)を掘って食べている。兵糧1升が鐚銭びたせん100文ずつで売られるほどになったが、これもすぐ売り切れてしまった。
(『戦国遺文 後北条氏編』3691号文書部分訳)

続けて康長はこの分なら敵方も「長陣」は難しいから、「早々世静に」なるだろうと楽観的な観測を述べている。

豊臣軍の飢餓状態は、ほかの文献に確かめられていないから、「事実誤認だろう」「豊臣の情報操作に乗せられたのでは?」とする見方もあるが、フロイスの『日本史』に「関白(秀吉)の兵士たちは、遠隔の地方の出であったことと、長途の旅とで衰弱しており、豊富な食糧にありつけぬばかりか、その点では不足をさえ告げていた」とあるのを無視するべきではないだろう。

北条主従も愚かではない。こんな重要局面で、敵軍の様子を見誤るぐらい無能であれば、北条相手に苦戦した上杉謙信や武田信玄も無能ということになろう。彼らに勝てなかった信長とて、その程度の武将ということになる。

第一、豊臣軍がここで兵糧不足をアピールする理由がなにもない。秀吉なら、むしろ贅沢ざんまいに振る舞って見せつけるだろう。自軍を弱く見せるより、虚勢を張ってドヤるのが好きだからだ。

米110kgで約9万円というのが当時の相場だが……

では、先の長束正家を介しての補給作戦と比較してどうなのかというと、両者の記録は意外にも一致するのである。

まず、松田康長が記した「兵糧1升が鐚銭100文ずつ」という米の値段を見てみよう。

当時の相場として、米1石(110~150kg相当、100升相当)は、1貫(9万円相当)であった。

古い日本の家に入った米袋
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そしてここに出てくる鐚銭というのは、古すぎて形の悪くなった貨幣のことだが、鐚銭3文はおよそ永楽銭1文に値する。古い300円硬貨が、新しい100円硬貨で両替されるようなものだ。

銭の価値は論者によって評価が異なる(1文60~150円が多い)が、計算の都合で1文90円で計算するとしよう。びた銭1文なら3分の1で30円だ。

米1升は本来10合のことだが、中世から近世の計算は世知辛く、なんと7.5合ほどであった。例えば江戸時代は「足軽に米を1升ずつ支給する」と言って、1升用の容れ物に75%の米だけを入れて配るのが当たり前だった。