小牧長久手の戦いの後、秀吉は家康に臣下の礼を取らせるため、妹の旭を家康と再婚させた。作家、歴史研究家の濱田浩一郎さんは「当時、既に40代だった旭姫には夫がいたが、秀吉が夫に返すように言い、離縁させられたと伝わっている。秀吉は他の血のつながった妹たちをひそかに粛清したという伝聞もあり、そのぐらいの強引なことはやるだろう」という――。
大阪市・大阪城豊国神社の豊臣秀吉像
写真=iStock.com/coward_lion
大阪市・大阪城豊国神社の豊臣秀吉像

目立たない存在だが家康の正室となった秀吉の妹とは?

大河ドラマ「どうする家康」に、徳川家康(演・松本潤)の元に嫁ぐ旭(朝日)姫が登場してきました。演じるのは、俳優の山田真歩さんです。では、この旭姫とは、一体、どのような女性だったのでしょうか。姫は、あの天下人・豊臣秀吉の妹です。よって最初から「姫」(貴人の娘)だったわけではありません。

父は竹阿弥、母はなか(後の大政所)と言われています。秀吉は、農民・弥右衛門の子と言われていますので、旭姫は秀吉の異父妹ということになります。

旭が最初、嫁いでいたのは、尾張の地侍でした。この地侍は、佐治日向守と言いました。秀吉が、主君・信長の死後に、天下の覇権を握るほどの男にならなければ、旭もその夫・佐治日向守も共に平穏に暮らせたことでしょう。ところが、そうはなりませんでした。秀吉は、天正12年(1584)、徳川家康と対立。小牧・長久手で戦います。最終的には和睦しますが、家康を完全に臣従させるまでには至りませんでした。家康方は和睦の際に、家康次男の於義伊(後の結城秀康)や家臣の子息を、秀吉の人質に出しています。よって、秀吉優位の和睦であったことが分かるでしょう。

和睦の証しとして、秀吉は旭姫を徳川家に輿入れさせた

家康と秀吉の和睦交渉は、その後も続きますが、それを仲介したのが、織田信長の次男・信雄でした。実は、秀吉は小牧長久手の戦い以後も、家康を軍事力でもって討つつもりでした。天正13年(1585)11月には、来春(1586年の1月ごろ)に、家康を討つため出馬する旨を明かしています。それは、家康が新たな人質提出命令を拒んだからです。秀吉は、家康を恐れていなかったことが分かります。

小牧長久手においても、秀吉軍は10万の軍勢(諸説あり)だったとされますが、家康方は1万超。10万は誇大としても、圧倒的な軍事力の差はあったのです。ところが、秀吉の「家康征伐」は中止されます。天正13年11月29日に、大地震(天正大地震)が発生。畿内も大きな被害を受けたのです。よって「家康討伐」どころではなくなった訳です。以後、秀吉は強硬策ではなく、融和策でもって、家康に臨むことになります。

その象徴というべきなのが、秀吉の妹・旭の家康への輿入れです。旭を家康に嫁がせることに関しては、『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)に「関白(秀吉)、重て、信雄とはかられ」とありますので、秀吉は織田信雄と相談して決めたようです。