徳川と武田は戦をしているふりを続ける

築山殿と信康がそれを語っただけなら、まだいい。しかし、この話に穴山ら武田方も賛同し、聞かされた家康も「なんという女子じゃ」と言って感動し、家臣たちも言いくるめられてしまうから驚く。

さらには、家康らは築山殿のファンタジーに同意し、その後は武田方の遠江(静岡県西部)における拠点、高天神城を攻める際も空砲を撃ち、武田方も空砲で応じ、築山殿のはかりごとが徳川と武田のあいだで合意されるのである。

こうしてしばらくのあいだ、徳川と武田は戦をしているふりを続けるので、戦況は少しも進展しない。いつまでも高天神城を陥落できないことに信長がいら立ったところで、武田勝頼(眞栄田郷敦)は、徳川が武田と手を結んでいるという噂を世間に流す。それを機に、瀬名と信康は悲劇へと突き進んでいく――。

あまりにも歴史を無視している

この脚本は、あまりにも歴史を無視しすぎているというほかない。

戦国大名がなぜ戦いつづけざるをえなかったか。それはひとえに領国の平和を維持するためだった。柴裕之氏の言葉を借りれば、「戦国大名・国衆は、自身の領国や従属国家を従えた『国家』を外からの脅威から守り、『平和』を維持するため、その解決手段として戦争を選んだ」(『徳川家康』平凡社)。

冑をかぶり戦
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とくに領国の境界の地域は、常に敵の脅威にさらされ、戦いが絶えなかった。戦わなければ敵の侵攻を許してしまう。また、境界の地域の国衆は味方と敵に両属していることも多く、自分が従属している戦国大名に、戦って「平和」を守る意志がないと判断すれば、国衆はすぐに離反した。戦わなければ国衆を従属させることもできず、国衆が離反すれば自身の滅亡につながりかねなかった。

家康はそれを百も承知だった。なぜ戦をするのか「考えたこともない」ばかりか、「貧しいから」「隣国から奪い合うしかない」などと返答するなら、戦国大名ではない。