「自分は優れている」がパワハラ人間にする

人から認められようとするのは虚栄心である。アドラーは「虚栄心においては、あの上に向かう線が見て取れる」(前掲書)といっている。「あの上に向かう線」は「優越性の追求」である。自分がより優れようと努力をすること自体には問題はなくても、教育が虚栄心の発達を促すとなると問題である。

親の期待通りに優秀であることができれば、本当に小さい子どもにもいばり散らすことが見られるとアドラーはいっている。このような子どもが大人になれば職場でパワハラをするようになるかもしれない。自分は優れた人間であり、かつ力があると思うようになるからである。

問題は「勝利」できない時である。親の期待を満たさない子どもは親から見放される。算数の成績が「3」であることを知り、「大変だ、これでは京大に行けない」と思ったのは、自分が将来成功できないと思ったわけではなく、大人の期待を満たせないことを恐れたのである。

テストの答案用紙を隠す子ども
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「生きているだけでありがたい」だったのに…

私とは違って、親や大人の事実上の命令である属性付与に反発する子どもの方が精神的に健康的である。しかし、そうでない子どもは親に逆らえず「自分を好まなくなった世界から退却し、孤立した生活を送る傾向をあえて示すことが見られる」(前掲書)とアドラーは指摘する。そのようなことをしなくても、親や大人の期待を満たせないと思った子どもは、自分には価値がないと思うようになる。

しかし、勉強ができるとか、頭がいいというのは人についての一つの属性でしかない。その属性を持っていないからといって、その人の価値がそのことで下がったりはしない。

親は初めから子どもに属性付与したはずはない。子どもが小さい間はどんな親も子どもが生きているだけでありがたいと心から思えただろう。ところが、やがて親はこんな子どもに育ってほしいという理想を抱くようになる。

子どもの言葉の発達が早いようだと思った親は子どもに「頭がいい」という属性付与をする。かわいい子どもには「かわいい」という属性付与をする。実際にそうかもしれないが、親の理想は次第に現実から離れていく。