戦場に集まった武士たちは扱う武器ごとに再編成された

戦国大名は、こうして軍勢を招集、集結させると、家臣や国衆当主を除き、原則として武器ごとに兵員の再編成を実施し、騎馬衆、鉄砲衆、弓衆、長柄衆などを組織した。家臣や国衆当主は、家来の一部を供回りとして自分の周囲に配置したが、引率してきたその他の家来は、各集団に吸収、再編されていったのである。この軍隊のあり方は、織田・武田・徳川・北条などでもまったく変わるところはなかった。

では、いったい織田と武田では何が違ったというのか。武田勝頼は、長篠戦後、軍役改訂に乗り出しているが、その中で「鉄砲一挺につき、2〜300発ずつ玉薬を用意せよ」と指示している。武田氏は、鉄砲や玉薬を準備するよう繰り返し家臣らに求めていたが、弾丸と火薬の数量を指定したことは、これまでなかった。

月岡芳年作「長篠合戦 山県三郎兵衛討死之図」
月岡芳年作「長篠合戦 山県三郎兵衛討死之図」 出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)

武田軍の敗因は鉄砲玉の数が少なかったからか

この指示に、私は、勝頼が長篠から得た教訓が潜んでいると考える。恐らく、長篠合戦で、武田軍は、織田軍鉄砲衆に銃数だけでなく、豊富に用意された玉薬に圧倒され、まったく途切れることのない弾幕にさらされ、敗退したのだろう。逆に、武田軍鉄砲衆は、早い段階で、弾切れとなり、沈黙を余儀なくされたとみられる。

その違いはどこに由来するのか。それは、長篠城跡、長篠古戦場、武田氏の城砦から出土した鉄砲玉や、武田氏の鉄砲玉に関する文書から窺い知ることができる。長篠城や長篠古戦場からは、現在までに25個の鉄砲玉が発見されている。これらのうち、現存する21発について、化学分析が実施された。

分析されたのはほとんどが鉛玉であった。実は鉛は、サンプルさえあれば、化学分析により、採掘された場所の特定が可能な唯一の金属である。鉛は、埋蔵されていた地質環境により、その同位体比に変動が生じるからである。

分析の結果、長篠の鉛玉は、①国産鉛(日本国内の鉱山より採掘されたもの)、②中国華南、朝鮮産の鉛、③N領域(未知の東南アジア地域から採掘されたもの)、に分類された。その後、③のN領域は、タイのカンチャナブリー県ソントー鉱山から採掘されたものであることが確定された。

このN領域の鉛は、室町時代まで日本では確認されておらず、戦国時代に突如登場する。しかも、いわゆる「鎖国」を契機に、日本から消え、国内に流通する鉛は国産に限定されていくのだという。つまり、長篠で発見された鉄砲玉の原材料の鉛は、戦国期固有のものであり、近世のものはないことがわかるのだ。