信玄急逝による波乱の家督相続で勝頼は早くもピンチに

元亀4(1573)年4月、三方ヶ原合戦に勝ち、圧倒的優位にあった武田軍の不可解な撤退は、衆目を集めた。まもなく、「信玄が病死した」「信玄は重病だ」「信玄は重病とも死去したとも噂され、情報が錯綜さくそうしている」などの風聞が一挙に広まった。

勝頼は、父は病床にあり、隠居したことと、自らの家督相続を同盟国に伝達した。信玄が存命しているかのように、重臣層も「御屋形様は病臥しておられます」と、国衆に手紙で伝えたり、信玄書状の偽造までやってのけていた。

いっぽうで、当主となった勝頼と、重臣層との関係は、微妙なものがあったようだ。信玄死去からわずか11日後、勝頼は、重臣内藤修理亮昌秀(上野国箕輪城代)に三カ条に及ぶ起請文を与えた。

毎年7月に福島県相馬市で開催される「相馬野成」には、 伝統武士の鎧を身にまとって、たくさんの人が参加している
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この起請文は大変有名なもので、内容から、勝頼と信玄登用の重臣層との対立が早くも表面化したことを示すといわれてきた。とりわけ、「侫人ねいじん」(口先巧みにへつらう、心のよこしまな人)による讒言ざんげんに焦点が当てられていることから、起請文作成の背景には、勝頼の家臣らと、信玄以来の重臣層との軋轢があるとする説や、勝頼に粛清されることを怖れた内藤昌秀が、勝頼に忠節を誓うことを約束する誓詞を提出し、勝頼からも起請文の発給を望んだと推測する説などがある。起請文の文言から、家督相続以前の勝頼と不仲だった人々がいたことは間違いなく、内藤昌秀はその一人だったのだろう。

信玄登用の重臣に信頼されず勝頼の立場は弱かった

家督相続にあたって、勝頼と家臣らは、相互に起請文を取り交わし、関係修復を試みたようだ。戦国大名の当主が交替した際に、新当主と家臣の間で、起請文を交換することは、通例であり珍しいことではない。ただ、勝頼の起請文発給の契機に、「侫人」をめぐる諍いがあったとみられることは、やはり武田家中に内訌ないこうが生じていた可能性を窺わせる。いずれにせよ、勝頼の権力基盤の脆弱ぜいじゃく性を示してあまりあるといえるだろう。