秀吉の徳川征伐計画は巨大地震で断念

帰国後、家康は信長の仇討ちになかなか出陣せず、ようやく動き出したところで羽柴秀吉に先を越されてしまった。以後、秀吉が急速に織田家で力をもち、賤ヶ岳合戦で宿老の柴田勝家を倒して大坂城を築き始め、信長の後継者たることを明確にした。

重要文化財「豊臣秀吉像」(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。〈伝 狩野光信筆〉
重要文化財「豊臣秀吉像」(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。〈伝 狩野光信筆〉(画像=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

これに不満を持った信長の次男・信雄は、家康に支援を求めた。家康がこれに応じたことで天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いが始まる。長久手の戦いで家康は大勝利をおさめたものの、信雄が秀吉と単独講和したことで、兵を引かざるを得なくなった。その後、豊臣政権を樹立した秀吉は急激に勢力を拡大、家康との差は開く一方だった。それなのに家康は秀吉への臣従を拒み続けた。

このため秀吉は、妹の朝日姫を家康の正室に差し出し、さらに母親の大政所まで人質として家康のもとに送り、どうにか臣従させたといわれる。ただ、じつは当初、秀吉は家康を懐柔するつもりはなかった。徹底的に潰そうと考えていたのだ。

秀吉が真田昌幸に宛てた書状を見ると、秀吉は天正14年(1586)正月を期して大兵力を動員し、徳川征伐を断行すると宣言している。だが、それからわずか10日後(天正13年11月29日)、現在の中部・近畿地方にまたがる巨大地震が発生、膨大な被害が出たのだ。このため秀吉は、徳川征伐計画を断念せざるを得ず、懐柔策に転じたというのが真相なのだ。

秀吉が家康に「江戸城拠点」を命じたワケ

天正14年秋に秀吉に臣従した家康は、以後は豊臣政権の忠実な重臣として活動する。

天正18年(1590)7月、秀吉は小田原の北条氏を倒して関東を平定したが、これより前、家康は父祖の地を収公され、関東へ移封を命じられた。しかも、100年栄えた小田原城ではなく、江戸城を拠点とするよう秀吉から指示されたのである。

巷説こうせつでは「秀吉が家康を警戒し、わざと大坂から離れた辺鄙な東国へ遠ざけ、寒村の江戸に追いやったのだ」といわれてきたが、近年、江戸は寒村などではなく水陸要衝の地であったことがわかってきた。

また、秀吉が家康を関東に配したのは、北条氏が滅んで動揺している関東地方を安定させるため、さらに、完全に豊臣政権に伏していない東北諸大名への対応を期待したという説が出てきている。