2022年8月に亡くなった京セラ創業者の稲盛和夫さんは、どんな人物だったのか。親交のあったニデック(旧日本電産)の永守重信会長は「第一印象で、自分にそっくりな人だと思った。以来、12歳年上の稲盛さんをライバル視してここまできた」という。『熱くなれ 稲盛和夫 魂の瞬間』(講談社)よりインタビューを前後編でお届けする――。(前編/全2回)

※本稿は、稲盛ライブラリー+講談社「稲盛和夫プロジェクト」共同チーム『熱くなれ 稲盛和夫 魂の瞬間』(講談社)の一部を再編集したものです。

日本航空の会長就任に伴う記者会見に臨む稲盛和夫氏=2010年2月1日、東京都港区
写真=EPA/時事通信フォト
日本航空の会長就任に伴う記者会見に臨む稲盛和夫氏=2010年2月1日、東京都港区

「自分とそっくりな人がいるな」という印象を受けた

稲盛さんがいなかったら、日本電産はこんなに早く大きくなれなかったでしょう。やっぱり強い人と一緒に走ると、自分も速く走れるようになるんです。

初めて会ったのは、会社をつくって10年くらい経った頃でした。京都銀行の常務さんが、京セラの稲盛さんという人がいらっしゃって、今ものすごく会社が伸びている、一度会ってみたらどうか、と一席設けてくださったんです。

同じ申年で、ちょうど12歳違う。僕は30代の終わりでしたが、稲盛さんは50代に差し掛かったところで、経営者として脂が乗り切っていた。それはもう話に勢いがありました。

僕も働く働く働く、でしたけど、稲盛さんも働く働く働く、でね。夜10時半くらいに食事が終わると僕は当然、会社に帰るつもりでした。稲盛さんはもう自宅に帰られるのかなと思ったら、今から会社に戻るとおっしゃって。やはりこれは半端ではないな、と思いました。

同時に、なんか自分とそっくりな人がいるな、という印象を受けたんです。それで、そうか、この人を目指していけばいいんだ、と思うようになりました。

稲盛さん以外にライバル視できる人はいなかった

東京出張に行くときには、僕は朝一番の新幹線で行って、最終で戻ってくるんです。当時の京セラの本社は山科にありましてね。新幹線から見えるわけです。すると、最終電車で通るときに、会社に煌々と電気がついている。

それで京都駅に着いたら、我が社にすぐに電話を入れるわけです。京セラはまだ煌々と電気がついてたぞ、と。そうすると、「社長、こっちはまだ気分は昼飯ですよ」と社員が言いましてね(笑)。社風も、ものすごくよく似ていましたね。

そして稲盛さんと出会ったことによって、僕の中で大きな変化が出てきた。戦う相手が見つかったからです。身近なところでね。

12歳も年上で立派な方をライバル視するというのは、大変ですよ。

「ちょっとお前、いくらなんでもおごってないか」と周囲に言われたこともあります。銀行からも「あんた、稲盛さんがライバルとか、何を言っているんだ」とお叱り、お咎めを受けたこともある。

だけど、それは非常に高いところに目標を置いているということなんです。小さな会社の自分が、近いところの会社をライバルにしてもあまり意味がない。あの頃の自分としては、稲盛さん以外にライバル視できる人はいなかった。

サラリーマン経営者なんか、まったく価値を認めていなかったし、松下幸之助さんや本田宗一郎さんもすごいんだろうけど、会ったこともない人に影響を受けるわけがないですから。そうなってくると、稲盛さんしかいなかったんです。