世界シェア7割の半導体も2割に減らされた

プラザ合意前に1ドル240円ほどだった円相場はわずか1年で1ドル150円を切った。これは、日本企業の製品・サービスが国際的に1.6倍の値段になったに等しい。日本経済はこの急激な円高に耐えられなくなり、日本政府はプラザ合意から1年半ほどで円安への国際協調を呼びかけた(ルーブル合意)。しかし、プラザ合意において日本が歩み寄った国際協調をあざ笑うかのように、ルーブル合意は無視された。

プラザ合意以外にも、日本の産業を直接潰しにかかった取り決めもあった。その一例が日米半導体協定である。

現在のアメリカ経済を支えるのは情報産業・コンピュータ産業であることは誰もが知るところだ。これらの産業に欠かせないのが半導体である。しかし、この半導体生産において、日本がかつて世界シェア7割を誇っていたことは忘れられつつある。日本の半導体産業は、日米半導体協定により世界シェアを2割まで削減するように一方的に求められ、そのシェアを奪って台頭してきたのが日本以外の東アジア諸国の半導体メーカーだった。

このように、日本の産業は全体として、また個別産業として、国際政治の中で何度も成長の芽を摘まれてきた。ただし、日本の経済成長が止まってしまったのには、日本自身の問題もあった。

「ヒトではなくカネ」判断を誤った

経営学的にみた「平成を通じて日本の経済成長が停滞した理由」は、日本で働く人々が「ヒトではなくカネが大事」という雰囲気にのまれて経営の基本を捨てたことにある。

ここでいう経営の基本とは、「価値創造の源泉は人間であり、価値創造のための障害となる様々な対立を取り除くのが経営だ」というある種の信念のことを指す。この信念は、高度経済成長期からバブル崩壊までの日本において信じられていた。こうした信念が普及する土台もあった。それは、戦前戦後の10年間で起こったハイパーインフレである。

終戦時の前後5年の10年間で、日本の卸売物価は200倍ほどになり、それに合わせて賃金も同様に上昇したとされる(岡崎哲二『経済史から考える』)。たとえば、公益財団法人 連合総合生活開発研究所「日本の賃金:歴史と展望 調査報告書」によれば、この時期に賃金は約181.4倍に上昇した。

それに対して、株価や地価は、賃金ほどには上昇しなかった。たとえば、明治大学株価指数研究所「兜日本株価指数」を見ると、1940年から1950年までの10年間で日本企業の平均的な株価はせいぜい10倍程度の上昇にとどまる。また、日本銀行統計局編『明治以降本邦主要経済統計』収録の市街地価格指数では、商業地・住宅地・工業地の地価は1940年から1950年までの10年間でせいぜい数十倍から100倍の間の上昇にとどまっている。