被災地――岩手県陸前高田市広田町に移住し、人口をひとり増やした若者・三井俊介さん。彼はこの半島の漁村で、今、どんな仕事をして食っているのか。そしてこれから、この町でどんな仕事をしていこうとしているのか。仕事を手に入れるまでの「交渉と説得」の経緯、そして具体的なビジネスの内容を聞く。
1988年、茨城県つくば市生まれ。高校時代はサッカー部所属。国際協力に興味を持ち、法政大学法学部国際政治学科入学。2008年、「WorldFut」設立。2009年4月から休学し、カナダとブラジルに留学。2010年2月に帰国、社会起業大学にダブルスクールで入学。2010年夏、カンボジア、中国、ベトナムを旅する。2011年4月、震災ボランティアで広田町に入り、通い続ける。2012年、法政大学を卒業。4月に広田町に移住。
ボコボコにされたプレゼン
――移住直前の3月ごろは、三井さんの収入源がなかなか決まらなかったので、こちらもメルマガをどきどきしながら読んでいました。三井さんは今、遠野まごころネットというボランティア組織の、広田町担当のスタッフとして定期収入を得ている。でも、最初は活動エリアが広田じゃなくなる可能性もあったわけですよね。
三井 はい、そうです。
――そこは遠野まごころネットの人たちと交渉したわけですね。「広田でやりたい」と。
三井 はい、交渉しました。
――三井さんが初めて入った被災地が広田だったのはまったくの偶然で、ボランティア組織の人たちに「ここに行け」と担当割で広田を当てられたからだと以前お聞きしました。実際、人やものをどこに差配するかは、ボランティア組織にとっては重要な問題で、大事なノウハウでもある。一人の若者の「ぼくはここでやりたい」という声をいちいち聞いていては、肝心の支援ができなくなる。でも、三井さんは説得できた。それは、向こうの余裕の問題だったのか、それとも三井さんの何かによってほぐれたのか。
三井 後者であると信じたいです。最初に遠野まごころネットを紹介してくださる方とお会いしたんですが、その方からはボコボコにされました(笑)。何を話しても「若い人には任してらんないよね」みたいな。そのあとまた面接に行って、「どうしても広田でやりたいんです」と、いろいろお話ししました。そのうちに、陸前高田で活動している「陸前たかだ八起プロジェクト」の事務局長さんも面接に同席してくれるということになり、さらに、陸前高田を支援している法政大学の教授も応援してくれて、「三井は広田町で活動すべきだ」と紹介状を書いてくれたんです。それを持って、今までより気合い入れた資料もつくって持っていって、遠野まごころネットの事務局長にお会いして、お話させてもらったんです。そこで「まあ、そういうことであれば、とりあえずはやってみなさい」というかたちに、ようやくなったという感じです。
ただ、その段階でもまだ「広田以外の地区での活動もやってもらうかもしれないからね」という話だったんです。そのあとに研修に参加して、「遠野まごころネットの全員が参加する会議の場で、広田でやりたいこと、広田の魅力、あなたが感じていること、やろうとしていること、あなたが感じる広田の可能性、全部プレゼンしなさい」と言われて、気合い入れてプレゼンやったんです。
そうしたら、プレゼンが終わったあとに遠野まごころネットのトップの人が「あなたがやりたいことはわかった。それだけいっぱい案があることもよくわかった。遠野を使い倒しなさい」って言ってくれたんです。三井は広田にコミットして活動するということは、そこで本格的に決定したんだと思います。
――都合、プレゼンは3回。プレゼン1=「若い人には任せてらんないよね」から、プレゼン3=「遠野を使い倒しなさい」まで、どれくらいの時間がかかりましたか?
三井 ざっと1カ月でした。