誰も日本から飛んできているとは考えなかった

最後に自爆して気球自体も姿を消す算段だったが、実際には動作不良のまま残った個体が今日までに多く回収されている。

スミソニアン誌は1944年秋から1945年夏のアメリカで、気球の目撃報告が数百件寄せられたと報じている。日本軍はおよそ9000機を放っており、うち1000機ほどがアメリカに到達したという。

もっとも、米ワシントン・ポスト紙はこれより少なく、放たれた1万機のうち実際に確認されたものは300機程度、割合にしてわずか3%ほどだったとしている。

いずれにせよ、太平洋を越えて飛来した気球は、調査に当たったアメリカ当局にとっても前代未聞だった。ラジオラボによると、付着していた土などから日本製であることは判明していたものの、日本本土から飛んでくるなど「不可能」であり、当初は軍艦を使ってアメリカ近海から放った可能性などが盛んに議論されたようだ。

1945年3月29日、ネバダ州ニクソンの近くに着陸した、爆弾を取り付けた日本の気球「フーゴ」を入手しようと木を切り倒す男性
1945年3月29日、ネバダ州ニクソンの近くに着陸した、爆弾を取り付けた日本の気球「ふ号」を入手しようと木を切り倒す男性(写真=National Museum of the U.S. Navy/PD US Army/Wikimedia Commons

米海軍の揚陸艦はパニック状態になった

気球はアメリカで広く知られるところとなり、軍関係者は相当に過敏になっていた。米超党派NPOのアメリカ海軍協会はFacebookの投稿を通じ、日本の気球に関連した往時の逸話を紹介している。

「1945年、(米揚陸艦の)USSニューヨーク(BB-34)が硫黄島へ向け航行していた際、乗員らは頭上に高く浮かぶ銀色の球体を目撃した。何時間にもわたり戦艦を追尾しているように思われた」

「この輝く球体が日本の気球兵器なのではと懸念した艦長は、撃墜を命じた。だが、銃はどれも命中しない。ついにはある航海士が、金星を攻撃していると気づいたのだった」

乗員たちは肝を冷やしただろうが、揚陸艦をパニックに陥れた気球の存在は、今ではこのような笑い話としても語り継がれている。

子供5人と妊婦1人が犠牲になった

一方、農村部のある町では、市民の人命が奪われる悲劇が起きた。

西部オレゴン州、人口700人ほどの小さなブライの町は、気球爆弾がアメリカ本土で死者を出した唯一の地と言われる。子供5人と妊婦1人が死亡したこの悲惨な事件について、ワシントン・ポスト紙は次のように報じている。

初めての子供を身ごもった26歳のエリス・ミッチェルさんは、1945年5月のある土曜の朝、教会学校の子供たち5人を連れて車でピクニックに出かけた。夫での牧師のアーチーさんがハンドルを握り、一行を乗せた車は州南部のギアハート山へ到着した。

晴れた空のもと、皆で駐車場に向かっていれば、事故は起きなかったかもしれない。だが、アーチーさんが車を止めているあいだ、エリスさんと子供たち5人は先に降り、森へと急いだ。

子供たちが何やら、茂みで見慣れない物体を見つけたようだ。ジェット気流が運んだ気球爆弾の不発弾だった。車を降りたアーチーさんは叫び声を上げたが、遅かった。