なぜ勝頼は無謀な強行策に出たのか

なぜ劣勢に陥った段階で、勝頼は強行突破を断念して引き下がらなかったのだろう。

じつは、これには理由があった。戦いの前夜、信長は酒井忠次(家康の重臣)に別働隊を組織させ、長篠城を攻撃するために構築した武田方の鳶ノ巣山砦を攻め落とす手筈を整えていた。

この作戦を申し出たのは、『三河物語』によれば、酒井忠次本人だったという。忠次は信長に対し、「長篠城の鳶ノ巣山の砦を遠回りして攻め落としてみせます」と述べたので、喜んだ信長は「お前の武名は耳にしていたが、まるで眼が十あるような者だ」とめて、その作戦を実行させたという。

一方、『信長公記』は、この作戦をあくまでも信長の考えた作戦だとする。同書によれば、信長は酒井忠次を招き、忠次隊2000に信長の馬廻うままわり鉄砲500を与え、さらに織田兵2000を援軍につけ、あわせて4000で鳶ノ巣山の砦を攻撃させたという。

そこで忠次隊は大きく武田軍の背後に回り込み、早朝(6時頃)、にわかにときの声を上げて鳶ノ巣山砦を急襲し、大量の鉄砲を一斉に放った。すると長篠城の城兵も城門を開いて出撃し、協力して猛攻撃をおこない、すさまじい武田方の抵抗を受けながらも、ついにこの砦を陥落させたという。

砦が織田・徳川軍の手に渡ったことで、合戦の最中に武田軍は前後を挟撃される状況になった。このため退却できなくなった武田軍は、何度も突撃を繰り返し、前面の敵陣を突き破るしかすべがなかったといわれる。

織田・徳川軍の本当の勝因

早朝(6時頃)に始まった戦いは、正午あたりから武田方の劣勢が明確になり、午後になると一気に瓦解がかいし、パニック状態になった。武田軍の後備えだった穴山信君や武田信廉ら親類衆は、勝頼を捨てて先に逃げ去っている。

この戦いでは、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、原昌胤、真田信綱、真田昌輝など武田の重臣の多くが死傷するという大損害を出してしまった。

山県昌景は、すでにこの戦いで死のうと決意していたとされ、徳川の本陣を目指してすさまじい突撃を繰り返していたが、本多忠勝の隊に捕捉され、数発の銃弾に貫かれた。

昌景は軍配を口にくわえ、しばらくこらえていたが、やがて馬から落ちて息絶えたといわれる。勝頼に設楽ヶ原での合戦を諫止した馬場信春は、戦場から逃亡する勝頼の横に付き添い、彼を援護して戦線からの離脱に成功させたといわれる。そして勝頼が落ち延びたのを見届けると、敵陣へ突撃し、壮絶な討ち死にを遂げたという。

武田勝頼
武田勝頼(画像=高野山持明院蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

こうして長篠合戦は、終わりを告げた。武田軍が大敗した理由は、勝頼の慢心か、信長の足軽鉄砲隊の攻撃か、それとも背後からも敵が来たからか――。私はそうではないと思う。

武田軍1万5000に対し、織田・徳川連合軍は3万8000人。後者の兵力はゆうに2倍はある。そういった意味では、数の差が最大の勝因だったのではないかと思うのだ。

いずれせよ、信長の援軍を得て長篠合戦に勝利できた家康。これにより武田勝頼の勢いは衰え、ようやく家康は窮地を脱したのである。