カトリック圏では皇帝は国王より格上

中世の西ヨーロッパでは西ローマ帝国が滅びたのち、各地の王者が東ローマ帝国の皇帝の権威を認めていたが、フランク王国のカール大帝が教皇から皇帝として認められ、それがドイツやイタリアを領域とする神聖ローマ帝国皇帝に引き継がれた。

国王(キング)は皇帝に次ぐ上位の肩書きで、ローマ教皇から名乗ることを許されていた。ただし、ボヘミア王のように神聖ローマ帝国の領域内だと皇帝と上下関係があるが、フランスやイングランド、ハンガリーの国王は皇帝より格下でも君臣の関係はない。

英国王がフランスのノルマンディー公でもあると、その限りにおいてはフランス王の家臣だった。また、ロシアはギリシャ正教で、教皇の権威の下にないので皇帝として扱われた。

しかし、ナポレオンが台頭すると、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国皇帝の地位を簒奪される前に捨ててオ-ストリア皇帝に「転身」した。ナポレオンもフランスの皇帝となり、カトリック圏の盟主としての意味は失われ、ドイツ統一でプロイセン王もドイツ皇帝になった。

これを見て悔しがったのが英国のビクトリア女王だったので、ディズレーリー首相は、インド帝国を創始して女王をその皇帝とした。イスラム圏では、イスラム帝国のカリフとか、ペルシャやムガール帝国のシャーもエンペラーと翻訳することもあった。

王室の黄金の王冠
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中国では始皇帝が最初に「皇帝」を名乗った

古代中国では王が君主の称号だった。ところが、戦国時代に覇者となった諸侯が王を名乗ってすっかり値打ちがなくなってしまったので、秦の始皇帝が伝説上の君主としての三皇五帝から1字ずつ取って皇帝という称号を名乗ることにした。

そして、中国の皇帝は朝貢してくる周辺国の支配者に王の称号を与えて領有権を認めることがあり、これを冊封といったが、冊封体制といった外交秩序があったと言い出したのは、戦後の媚中派の日本人学者であって、中国でも使われていない。

朝鮮や琉球の王は皇帝による冊封がないと王の称号を使わなかったが、古代の倭王や北方民族の君主たち、さらには、8世紀以前の朝鮮半島の国王たちは冊封を受ける前から王者だった。

また、モンゴルのハーン(汗)も中国の皇帝より格下という認識ではなかったし、冊封を受けながら同時に他の勢力の支配下にあることもあった。島津に支配されていた琉球がその一例だ。