義時の次男・北条朝時による証言
義時が病死だったとする説を更に裏付けるのは、中世鎌倉において形成された聖教資料『湛睿説草』です。
義時の次男・北条朝時が、1224年閏7月2日に、父・義時の四十九日の仏事を行った際、仏前で読みあげられた言葉を記したもの(「慈父四十九日表白」)があります。
それによると、義時は夏の初め頃から痛みを体に感じ、床に臥しがちであったが、秋の末に亡くなったとあります。
義時が亡くなったのは6月13日で、四十九日の仏事が閏7月2日に行なわれたことは問題がないとしても、秋の末に亡くなったという記述とは食い違います。この齟齬の理由は不明です。
しかし、前掲の史料を見ると、日頃から脚気を患い、それにプラスして暑気あたりによって衰弱し、死に至ったとする『吾妻鏡』の記述と被るものがあります。痛みというのは、足の痛みを指しているとも考えられます。
私は以上のことを鑑みて、義時は伊賀の方による毒殺ではなく、『吾妻鏡』に記されたような病死だったと推定しています。