病の義時の前に集まったのは政子ではない
まず、死の前日(6月12日)、この日は雨が降っていたのですが、その午前8時頃には、義時は既に「病惱」、つまり、病になっていました。とはいえ、この日に急に病気になったわけではなく、前から少し体調不良であったようです。
が、重病でどうしようもないというわけではなかったとのこと。それが、6月12日の朝になって、急に重症となったのでした。
義時の病にどのように対応するのか? 現代ならば、病院に行き、医師に診察してもらったり、薬を貰ったりするでしょうが、当時は違いました。陰陽道に基づいた呪術を行う陰陽師が招集されたのです。
陰陽師といえば、平安時代の安倍晴明が有名ですが、義時の病の時は安陪國道・安陪知輔・安陪親職・安陪忠業・安陪泰貞らが呼ばれたのでした。
彼らはまず、占いをします。その占いの結果は「義時の病は大したことはなく、午後8時頃になれば良くなってくる」というもの。そんな結果を出した上で、彼ら陰陽師は祈祷を始めます。
天地災変祭(天災地変をはらうために行なう祭)、三万六千神祭(災いを祓う祭り)、属星祭(危難を逃れ、幸運を求めるために、その人の属星をまつる祭)、如法泰山府君祭(泰山府君は中国古代の神。仏教の閻魔大王と習合し、人間の寿命を支配するとされた)を行いました。さらに、五種類の形代(馬、牛、男、女、着物)も用意されました。形代に災いを移し、義時を助けるためです。
陰陽師の懸命な祈祷が進められますが、義時の病状は悪化するばかりでした。そして、いよいよ運命の日(6月13日)を迎えます。
「日頃から脚気を患っていた」
この日も雨が降っていました。義時は、いつ亡くなってもおかしくない状態だったようです。
寅の刻(午前4時頃)に出家をし、巳の刻(午前8時~午前10時)に、義時は息をひきとりました。
義時を死に至らしめたものはなんだったのか?
『吾妻鏡』は、「日者脚氣之上、霍乱計會す」と記しています。つまり、義時は日頃から脚気を患っていたというのです。それに「霍乱」(夏季に生ずる下痢や嘔吐を伴う体調不良)が加わる。それこそ、義時の死因だと『吾妻鏡』は記しています。