「老衰」扱いされているケースが少なくない

新型コロナ上陸前の直近数年の季節性インフルエンザによる死者は年間2000~3000人(間接的な影響も含めた推計でも約1万人。ちなみに2009年の新型インフルエンザを直接死因とした死者は198人)だ。これらと新型コロナによる死亡者数とを単純に直接比較することは適当でないにしろ、この今年に入って3万人超という数字がいかに大きなものかは理解できよう。しかもこの数字は、新型コロナを直接死因としない人も含んではいるとはいえ、けっして過大評価されたものとは言えないのだ。

例えば、感染しても高熱が出ないなど症状が軽微であって、急性期症状も落ち着き、療養期間が明けたにもかかわらず、感染をきっかけに急速に食欲が減退し衰弱死してしまった高齢者、彼らの死亡診断書の死因は「老衰」とされ、書類を作成する医師によっては、直接死因の経過に影響を与えたものとして「新型コロナウイルス感染症」に罹患りかんしたことさえも記載されぬまま、真実が文字通り“葬られて”しまうこともあるのだ。

これらの人は、新型コロナの流行がなく、新型コロナに罹患さえしなければ亡くならずに済んだであろうはずなのに、これらの数字にさえ反映されないのである。

厚生労働省は今月7日、この第7波の7~8月、自宅での死者が全国で少なくとも776人いたと発表したが、これは第6波を上回るものであった。半数以上は80歳代以上、7割が基礎疾患ありとのことだが、死亡直前の診断時の症状は「軽症・無症状」が41.4%と最多であったという。つまり軽症だからといって命に関わらないとは限らないのだ。

こうして適切な医療にたどり着けないばかりか、十分なフォローアップさえされずに自宅死となる人が多数発生している一方で、元首相経験者や首長などは、軽症であっても当然のように入院して手厚い治療に難なく到達しており、命の格差をまざまざと見せつけられた。

戦死者が野ざらしにされる一方、荘厳な国葬が行われた

「3年ぶりに、緊急事態宣言等の行動制限を行わずに、今年の夏を乗り切れたのは、国民の皆様お一人おひとりが、基本的な感染対策を徹底してくださったおかげです」

これほどまでの史上最悪の死者、自宅死が相次いだにもかかわらず、10月3日の第210回臨時国会の所信表明演説において、こう述べた岸田文雄首相の言葉に私は思わず天を仰いだ。彼には、これらの死者一人ひとりの顔を思い浮かべようという気持ちはあるのだろうか。命の重みというものを本当に理解していれば、このような演説はとてもではないができないだろうと私は思う。

死者一人ひとりには、異なった名前があり、異なった顔があり、それぞれに異なった人生を歩み、それぞれに大切な人がいる。そしてその命の重みは、いかなる人でも、いかなる命の失い方をした人でも、貧富の差、身分や地位、財力の多寡にかかわらず、等しく重いことは疑う余地もない。本来は当然そうあるはずなのだが、ロシアのウクライナ侵攻でいまだに多数の戦死者が野ざらしになったままである一方で、女王や首相経験者には荘厳な国葬が執り行われるという「命の格差」を見せつけられたのも、この一年であった。