初出馬はマイナス20度の真冬だった

私にとって初めての衆議院選挙は、昭和58年12月。マイナス20度の真冬の選挙でした。自民党から公認をもらえず、無所属での出馬です。北海道5区は、定数5に対して9人の候補者がいました。マスコミの当落予想だと、鈴木宗男は6番目か7番目。×印です。

応援が少ない中、進んで駆けつけて、千春さんは遊説のマイクを握り、しかも朝8時から夜8時まで一緒に遊説してくれました。

こんな即興スピーチをしてくれたのを、よく覚えています。

「スズキの『ス』は、すぐ働きます。『ズ』は、ずっと働きます。『キ』は、きっとお役に立ちます。ム・ネ・オは、『ム』りな『ネ』がいも『オ』まかせ下さい。スズキムネオです」

選挙運動最終日の朝、千春さんが選挙カーに乗るウグイス嬢たちに向かって、

「歌手は喉が命だけど、俺はもう喉が潰れて、使えなくなってもいい。今日はそこまでの覚悟で行くから、みんなも頼む」

と挨拶したら、誰もが涙を流したものです。

集会には人口の半数近くが集まった

隣町の陸別から集会をスタートすると、人口約4000人の町なのに300人も集まってくれました。次は地元の足寄で、当時は約1万人ほどの人口でしたけど、3000人くらい集まってくれました。千春さんが思わず、「足寄にこんなに人がいたか」と言ったほどです。地元から国会議員を出そうという気持ちが強かったから、共産党の町会議員まで来てくれて、「宗男がんばれ!」と叫んでいました。

なんとか4位当選が決まって千春さんに電話をすると、「よかった、よかった」と喜んでくれて、千春さんも私も大泣きでね……。そして、こう言われました。

「宗男さん、政治家は声なき声に寄り添わないといけませんよ」

以来40年、その言葉を忘れたことはありません。

選挙のあと、音更の診療所に入院していたお父さん、明さんのお見舞いに行きました。認知症の兆候が出ていた明さんは、私の顔を見ると尋ねました。

「鈴木君、いつ選挙に出るんだ? 応援するぞ」
「父さん、宗男さんは、もう国会議員になったんだよ。今日はその報告に来たんだ」

横から千春さんが説明しても、

「いつ選挙に出るんだ?」

と繰り返します。

私は、明さんの手を握って言いました。

「近いうちに必ず出ます。そのときはぜひ応援して下さい」

となりにいた千春さんの目に、涙が浮かぶのが見えました。