異文化を「手軽に解説する」という暴力

この問題に深く関わる、20世紀半ばの文化人類学の理論的転換について見てみよう。かつて文化人類学においても、異なる社会の文化について「なぜその文化が存在するのか」を執拗しつように問い、特定の説明方法を自他に要求するスタイルが横行していた。20世紀前半に流行した「機能主義人類学」は、異なる社会に見出されるあらゆる文化要素について、「当該社会または個人における何らかの機能があるはずだ」と想定して説明しようとしていた。

たとえば、「人びとはなぜ祭りを催すのか」という問いに対し、「個人の快楽のため」「ストレス発散のため」「体力増強のため」などと、個人の欲求・利益に還元する説明を行ったり、「町内の結束のため」「集団のアイデンティティーを強化するため」「国民意識の醸成のため」などと、社会的な効用に還元する説明を行ったりしていた。

異文化についてこうした理解を進めていく機能主義人類学は、一時期、一定の評価を得ていた。ヨーロッパのまなざしで非ヨーロッパの諸社会を観察した時、一見奇異に見える慣習や行動が見出されることがある。それらについても、「劣って後れた文化」などと蔑視、否定することなく、「当該の社会の中においては何らかの役に立っているに違いない」と価値付けることで、その文化要素の存在を肯定するという意味合いをもっていた。

他集団が営む文化の諸要素をばらばらに切り離さず、当該社会の文脈に位置付けて理解し、それぞれの要素が存在する価値を肯定的にとらえようとした点では、確かに功績があった。このような説明は、異文化を解説できる手軽な手法として大いにもてはやされた。

地球儀を掲げる若者たち
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他者を勝手に説明し、知的に満足してよいのか

一方で、機能主義人類学は、やがて批判にもさらされることとなる。構造主義人類学の創始者レヴィ=ストロースは、アメリカ先住民などの諸社会におけるトーテミズムの研究を踏まえ、機能主義的な異文化理解の問題点を明快に指摘した(レヴィ=ストロース、1962=2000)

機能主義は、「なぜその文化要素が存在するのか?」「それは○○だからである」と、ヨーロッパ人が納得しやすい説明の地平を一意に設定し、そこに還元させて事象を説明する。物理学のように、文化社会の諸事象を少数の法則に還元して理解しようとしたのである。

しかし、さまざまな文化要素を、あたかも機械仕掛けの時計の部品のように見なし、他集団を自前の特定の世界観で分析、説明、納得するという行為は、ヨーロッパ人の思考が好む説明の地平を他集団に一方的に充てがっているに過ぎない。

そこでは、先住民たち自身がどのような思考様式をもっているかといった点が、まったく考慮に入れられていなかった。