原理原則から外れる日本の学校教育のあり方

早く結果を出したい心理と、楽に流れたい心理。これに拍車をかけているのが、日本の学校教育のあり方です。

心理学者のエドワード・デシとリチャード・ライアンの「自己決定理論」によると、人が勉強をする動機は、「報酬/罰」「罪悪感」「目的」「興味」の四つがありますが、今の日本のほとんどの教育環境は「報酬/罰」と「罪悪感」に訴えて勉強をさせます。

「勉強する子は感心だ、しない子はけしからん」という大人たちの価値観を、子どもは多かれ少なかれ、感じ取りながら生きています。だからどこかで、「勉強しなきゃいけないんだけどな……」という罪悪感を担わされています。

そこに、「報酬/罰」も絡んできます。褒められる・叱られることもそうですが、もっとも明確なのは、テストの結果です。

形あるご褒美やペナルティがなくとも、「結果が良ければうれしい、悪ければ落ち込む」という本人の一喜一憂が、十分な報酬と罰になっているのです。

定期テストは年に5回と、頻繁にあります。受験期になれば、模擬試験も加わってきます。しょっちゅうやってくる「報酬/罰」を前にすると、早く成績を上げたくなるのも無理のない話です。

教室でテストを受ける学生
写真=iStock.com/smolaw11
※写真はイメージです

大切にしたいのは「目的」と「興味」

では、あとの二つの「目的」「興味」についてはどうでしょうか。

こちらは、前の二つとは逆。原理原則の学びと結びつきやすい動機です。

「この分野を勉強して、将来は○○の研究者になりたい」といった目的があれば、自然とそれに適した学び方を、自分の頭で考えるでしょう。「次のテストで何番以内に入る」といった短期的目標ではなく、長いスパンでとらえているため、成績がすぐに伸びなくても、心理的ダメージはわずかです。

そして「興味」は、原理原則の学びに直結する、最強の動機です。興味とはすなわち、「もっと知りたい」「本質を探究したい」という気持ちにほかならないからです。

目的意識と興味を持てるか否かは、高い思考力や深い理解、つまり「真の知識に至れるか否か」の分岐点と言ってもよいでしょう。

しかし日本の教育環境で、子どもたちに興味を持たせることは至難の業です。

学校の先生方も、何も好き好んで「報酬/罰」に走っているわけではありません。持たせたくても、できないのです。

学校の授業にも試験にも、複数の科目があります。その全科目に興味を持てる子など、そうそういるものではありません。

目的に関しては、1クラス30人前後という多人数が障壁になります。生徒たちは、学力レベルもモチベーションも、将来の希望も一人一人違います。

その子たちを、まとめて勉強に向かわせるにはどうするか……。

「いい学校に合格すべし!」が、もっともわかりやすい動機付けになります。最大公約数的で短期的な、最大の「報酬/罰」というわけです。