<小さな「うち」集団にまで行き渡った同調性は、低い犯罪率に寄与しているようにも見えるが、その閉鎖性が引き起こす問題も少なくない:小宮信夫>
学校の教室
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令和になっても「同調圧力」という言葉は相変わらずよく聞かれる。例えば、日本でイノベーションが起こらず、デジタルトランスフォーメーションが進まないのも、同調圧力のせいだという。太平洋戦争時の戦争継続への同調圧力を思い起こさせるが、今もなお同調圧力が根強いのはなぜなのか。その背景には、日本人独特の「うち」意識がある。

「うち」意識とは、自分の所属集団を「うちの家」「うちの会社」「うちの学校」などと呼びつつ、そこを自分の居場所として、安心感や安定感の源泉とすることである。これとセットになっているのが「よそ」意識である。それは、自分の所属集団の外側にいる知らない人(社会一般)に対して、自分とは無関係と考え、それゆえ無関心・無責任になることである。

「うち」が特定の場所に根差しているのに対し、「よそ」はどこか別の場所を指しているにすぎない。「うち」世界にいるのは身内(うち)なので多くのことが内々(うちうち)で済まされるのに対し、「よそ」世界にいるのはよそ者なので互いによそよそしい態度が示される。

日本人の間では、こうした「うち/よそ」の二分法が鮮明である。ところが、西洋人の間ではこの二分法が不鮮明である。西洋人のそれは、「個人/社会」の二分法だからだ。

日本人に根差す「うち」意識のルーツ

日本では個人主義的な意識が十分に確立していない。個人が「うち」集団に埋没しているので、社会の中に日本的な「うち」と「よそ」が混在し、社会の仕組みが分かりにくくなっている。

一方、西洋では個人が能力や関心に合ったネットワークを張り巡らし、それが社会になっている。人々は一つの場(単一の集団)につなぎ止められることなく、社会の中を浮遊している。しかし日本では、所属集団が磁場のように人々を引き留め、ネットワークの拡充を阻んでいる。言い換えれば、日本では個人の意識が集団内に固定されているが、西洋では個人の意識が社会全体に拡散しているのだ。

このように、西洋の社会では内陸国のように人の移動が容易だが、日本の社会では群島国のように人の移動が困難である。日本人は、自分がいる一つの島(うち集団)のことはよく知っているし、知る必要もあるが、他の島(よそ集団)のことはほとんど知らないし、知る必要もないのだ。

では、なぜ日本だけがそうなのか。

その答えを見つけ出すには、日本の歴史を紐解く必要がある。

そもそも、アフリカで長い時間をかけてサルから進化したヒトは、やがて世界に広がっていき、4万年前ごろに日本列島に移り住むようになったらしい。その人々が日本人のルーツだ。

その後、先住系の縄文人と渡来系の弥生人の混血が進んだが、興味深いのは、それが平和的に行われたという点である。ミトコンドリアのゲノム解析によると、両者の間には一方的な征服はなかったようなのだ。この点について、国立科学博物館の篠田謙一は、「日本には狭い面積の割に非常に多様なグループが存在する」と述べ、その理由を「他者との融和に努めてきた日本人の生き方を反映しているのではないか。争いが多ければ、ミトコンドリアが途絶える危険性は高まる。争いが少ないからこそ、途絶えずにきた」と説明している(長崎新聞2013年1月3日)。