日本人はマグロが大好きだ。しかし、かつてはそうではなかった。江戸料理・文化研究家の車浮代さんは「江戸っ子に人気があったのはタイやカツオで、マグロは下魚の中でも最下級の魚だった。とりわけマグロのトロは不人気で、江戸時代はもちろん、昭和初期までタダ同然で取引されていた」という――。

※本稿は、車浮代『江戸っ子の食養生』(ワニブックスPLUS新書)の一部を再編集したものです。

マグロの手持ち寿司
写真=iStock.com/GI15702993
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1日に1億円が動いた江戸の魚河岸

江戸っ子は、魚をとにかくよく食べました。体の基盤になるたんぱく質は魚介類からとり、活力を養っていました。江戸っ子の魚好きを支えたのが、現在の東京日本橋あたりに開かれていた「魚河岸」です。その様子は、『東都名所日本橋真景并ニ魚市全図しんけいならびにういちぜんず』という浮世絵に表されています。

日本橋川には荷物を積んだ船が何艘も行き交い、慶長8(1603)年につくられた日本橋が架けられていました。橋の長さは約50メートル。その東に架かる江戸橋までの北岸が、魚河岸と呼ばれた地域です。

魚河岸からは富士山が大きく見え、たくさんの人々が集まり、魚を売り買いしていました。その広大な魚河岸に大量の魚が集められ、高級魚から下魚までが順番にずらりと並べられていました。

魚河岸では、1日に千両という大金が動いたといわれます。千両とは、今の金額に換算してなんと1億円。ちなみに、魚河岸と芝居町と吉原遊郭の3カ所は、「1日に千両の落ち所」といわれていました。

武士が最も好んだのは鯛

魚河岸のそばには、「活鯛屋敷」という大きな生け簀がありました。

ここは幕府直営の生け簀で、鯛やひらめ、伊勢海老、車海老などが養殖されていました。これらの高級魚は、祝い事に欠かせません。必要なときにすぐに対応できるように設けられた、大きな生簀でした。

とくに武士に重宝されたのが、鯛です。鯛の体は硬いウロコに覆われ、まるで鎧を着ているようです。さらに、尖った背びれやピンと張った尾びれなど、全身がかもしだす勇壮な姿が武家に好まれました。もともと高級魚として扱われていた鯛ですが、その扱いは、室町時代までは鯉の次でした。公家が鯉を好んだからです。

しかし、江戸時代になると、鯛こそが「魚の王」と扱われるようになりました。江戸時代、鯛は刺身・煮物・焼き物・蒸し物・揚げ物・酢の物・練り物……と、さまざまな料理法が考案され、人気を上げました。