織田信長はなぜ「天下人」になれたのか。三重大学の藤田達生教授は「鉄炮の登場が合戦を根底から変えてしまった。大量の鉄砲を揃えるほど有利になるが、そのためには大量の資金が必要になる。このため信長は鉄炮のために領土を拡大していった」という――。

※本稿は、藤田達生『戦国日本の軍事革命』(中公新書)の一部を再編集したものです。

「新兵器・鉄炮」が戦国時代を終わらせた

鉄炮伝来以前の戦国時代の一般武士は、戦争において武器を弓→槍→刀の順でおおむね使用した。対峙する両陣営は、戦端が切られて後、徐々に接近戦となってゆくが、一日中戦闘を続けることは困難だった。

織田信長像(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
織田信長像(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

まず矢種に限界があり、馬上槍にしても太刀たち打刀うちがたな(日本刀のこと、以下では刀と記す)にしても、必ず刃こぼれと曲がりや折れが発生するからである。

いうまでもないが、これらの武器はいずれも消耗品であり、種類(大太刀やよろい通しなど用途に応じて様々)も量もそれなりの予備を持参するのが普通であり、武装してそれを使用する人間の体力の消耗も激しかった。

武士は、伝統的に騎馬で出陣する。木曽馬に代表される軍馬は、その育成に相当の手間暇がかかった。馬の種類や体躯は、持ち主の身分を表した。基本的に移動手段として利用したが、当然のことではあるが戦場で騎馬戦がおこなわれることもあった。

その場合、人馬が一体となって戦うため、馬にも鎧(馬鎧)を着用させることがあった。去勢していない雄馬おすうまは獰猛で、戦場で敵の馬や武士を殺傷するほどの実力を発揮した。鉄炮戦が一般化すると、標的になりやすいこともあって騎馬戦は一気に下火になった。

鉄炮が変えた合戦風景

しかし、慶長年間になっても、戦場に騎馬は登場した。白兵戦の場合、よい敵を探すのに有利だったし、いち早く移動することができ、撤退も素早くおこなうことができたからである。