いきなりこういうことを書くのはちょっと気が引けるのだが、えいっと思い切って書いてしまえば、正直なところ、私は女流作家的随筆、とでもいうようなものはあまり好きでない。いかにも、女性らしいこまやかなる感性(のようなもの)を発揮しつつ、やや古風で雅やかな語彙などを駆使しつつ、日常茶飯のことをくねくね縷述する、とでもいおうか。そういうのはなんだか鬱陶しいのである。

<strong>半藤末利子</strong>●はんどう・まりこ 東京生まれ。上智大学卒業。エッセイスト。父は夏目漱石門下の作家松岡譲、母は漱石の長女筆子、夫は昭和史研究家の半藤一利である。9歳から高校卒業まで暮らした疎開地長岡が第二の故郷となった。著書に『夏目家の糠みそ』『夏目家の福猫』などがある。
半藤末利子●はんどう・まりこ 東京生まれ。上智大学卒業。エッセイスト。父は夏目漱石門下の作家松岡譲、母は漱石の長女筆子、夫は昭和史研究家の半藤一利である。9歳から高校卒業まで暮らした疎開地長岡が第二の故郷となった。著書に『夏目家の糠みそ』『夏目家の福猫』などがある。

さて、ところが、この半藤末利子さんの書かれた『漱石の長襦袢』という本は、どこからどう読んでも、叙上の意味での女流作家的随筆の臭みがない。うそだと思ったら、試しにどこでもいいから本書を繙いて一つ二つ短い随筆を読んでみるがよい。じつにさっぱりとして粘らず、一言以(もっ)て之を蔽(おお)うべくんば「清爽なる文章」と評しうる。

たとえば、ここに「60年前」という好箇の小編がある。漱石の娘筆子を母に、漱石の弟子松岡譲を父にもつ筆者が、その父の郷里越後の寒村に疎開した頃のことを追憶しながら、それから60年後の感懐を綴ったもので、ちょっと漱石の「ケーベル先生」などのような上質の随筆に通うさっぱりとした、しかし滋味深い筆意を感じる。

「間もなく降り始めた雪は昼夜を問わず降り続き、よりにもよってその年は記録的な豪雪となった。積雪は2階家をすっぽりと埋め、電柱や電線につまずくほどであったから、こたつしか暖房のない屋内は白い壁に覆われた冷蔵庫そのもので、昼なお暗かった。その上に雪の重みでよく電線が切れ、ゆらゆら揺れるろうそくの灯だけが頼りの晩は本当に幽霊が出そうな気がした。……時には空から蛇が降ってくることもあった。裏庭には高い高い杉の巨木が林立していて、天辺にたくさんのふくろうが棲みつき、夜になるとホーホーと物哀しげに鳴いた。そのふくろうが餌として嘴(くちばし)にくわえたものの蛇に抵抗されて飛び去りながら落とすのである」

こういう文章を読むと、私の胸は晴れ晴れとする。屈託するところや、大向こうを唸らせようとする俗念がないからである。

表題作は、漱石の間着(あいぎ)として伝わる派手な襦袢を、展示者が勝手に、女物の襦袢で、しかもそれを漱石が上に羽織っていたような憶断を書いたことによって、とんでもない誤謬が独り歩きすることを諷したものである。これも厳しい内容ではあるのだが、文章にふんわりとした温かさがあって、読後感は頗すこぶる良い。あとは、諸賢宜しく一読されよと心よりお勧めするというだけで、小文の主意は尽くしたというべきであろう。