「誰でも参加」で現地融合を促進

<strong>澤部 肇</strong>●さわべ・はじめ1942年、東京都生まれ。64年早稲田大学政治経済学部卒業、東京電気化学工業(現TDK)入社。84年経営企画室副部長、91年記録メディア事業本部欧州事業部長、96年取締役記録デバイス事業本部長を経て、98年から2006年まで社長を務める。06年より現職。
TDK社長 澤部 肇●さわべ・はじめ
1942年、東京都生まれ。64年早稲田大学政治経済学部卒業、東京電気化学工業(現TDK)入社。84年経営企画室副部長、91年記録メディア事業本部欧州事業部長、96年取締役記録デバイス事業本部長を経て、98年から2006年まで社長を務める。06年より現職。

1991年12月、ルクセンブルク郊外のバシャラージェにできた工場で、クリスマスを迎えた。約550人の従業員に声をかけ、工場の片隅にある倉庫でパーティーを開く。隣にビール会社があり、交渉して、飲み放題にできた。だが、料理は、食堂で焼き、ハムを挟んだフランスパンだけ。音楽は、現地社員が奏でるアコーディオンだった。

タキシードに蝶ネクタイのいでたちで参加した従業員もいた。だが、大半は、仕事が終わった後だけに作業服のまま。それに、いくら飾り付けたとはいっても、倉庫は倉庫。みんなに気の毒だとは思ったが、トップとしての挨拶で声を張り上げる。

「いまはこういう状態だが、早く、こんなのではなくしましょう」

49歳にしては、力が入りすぎていた。でも、4月に着任し、すぐに稼働できると思っていたのに、なかなかうまくいかず、1年目はたいへんな赤字。日本人の幹部が「儲かっていなくても、クリスマスですから、何とかして下さい」と言って、もう少しパーティーらしくするように訴えてきたが、「ダメだ、儲かっていないのだから」と退けていた。その代わり、「黒字になったら、ホテルを借りて立派なパーティーを開く」と約束もしていた。

翌年、黒字化し、約束通り、ルクセンブルクの中心街にあるホテルでクリスマスパーティーを開く。みんなで貸し衣装を調達し、めいっぱいドレスアップした。

1年目も、2年目も、声をかけたのは「日本人だけ」でも「幹部社員だけ」でもない。澤部流に、そういう区別はない。必ず、全員だ。そこは、前号で触れた「機能対等」の精神に通じる。工場には、18カ国の人間がいた。日本人も、工場があった長野や大分など、いろいろな地域から集まっていた。気持ちを一つにまとめることは、容易ではない。でも、出たい人は誰でも参加できるパーティーが、融合の促進剤になる。

40代になって、通い慣れた社長室を離れ、テープ類を扱う記録メディア事業本部に加わった。日米経済摩擦が激化して、円高が急進する直前。どの輸出産業にとっても輸出から現地生産への切り替えが、急務だった。すぐに、米国での生産拡大を計画する。だが、着手寸前、欧州で日本製品にダンピング輸出の疑いをかけられ、厳しい制裁措置がとられそうになる。

欧米に、同時に2つの工場をつくるまでの体力はない。しかも、欧州のほうが米国よりTDKのシェアは高かった。急きょ、転進を決断。オーディオ用とビデオ用の両テープの工場を、ルクセンブルクにつくることにする。設立準備に手間取っていると、社長に呼ばれた。「澤部君、きみが、行ってくれ」――予想もしていなかった。海外勤務の経験はない。計画書には、現地責任者として別の人間の名を書き込んでいた。

91年4月、渋々ではあったが、工場の稼働に関しては楽観して着任する。8月、最初のオーディオテープができ上がり、問題もなく、量産体制に入った。ところが、10月に立ち上げたビデオテープは、高温多湿や氷点下などで繰り返し使ってみる「耐久走行試験」でひっかかる。何度やっても、試験中にテープが止まってしまう。

現地で採用した従業員たちは、事前に日本で同じ機械、同じ欧州製の材料で研修を重ね、うまくできていた。なぜ、ルクセンブルクではできないのか。湿度など気候の違いのせいか。近くのガラス工場から細かいガラスの粉が飛んできて、テープに付着しているのではないか。いろいろ探ってみたが、わからない。最後に、「しょうがない、日本の材料でやってみよう」と決めて、送ってもらう。すると、うまくできた。しばらく日本の材料を使い、徐々に現地製に変えてみる。なぜか、もう走行試験でひっかからなかった。

「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助さんは「どんなによいことでも、一挙に事が成るということは、まずあり得ない。よいことであればあるほど、それが正しいと思えば思うほど、何よりも辛抱強く、根気よく続けていく心構えが必要だ」と説いている。この教えは知らない。しかも、せっかちで、何でも急ぎたい性格だ。でも、このときは、幸之助流の「根気よく」を貫いた。