ネットは決してユートピアではない

私が本稿で考えたいのは「誰もが自由に発言できるインターネットで、何かを発信する際にわきまえておかなければならない『責任』」について、である。

今回の木村さんの一件を受け、SNSとは、かくも残酷なものなのか……と改めて思わずにはいられなかった。SNSの影響で、人が死んでいいわけがない。おかしい。あり得ない。間違っている。その異常さをきちんと認識すべきである。

ネットはたしかに便利なツールであり、使い方次第でたくさんの利便性をわれわれにもたらしてくれる。ただ、愚かさ、狡猾さ、欲深さ、残酷さなど、人間のどうしようもない本質や業を顕在化してしまう一面も、確実に備えている。決して、ユートピアのような世界ではないし、万能な道具でもない。

そういったことは2009年に刊行された私の本『ウェブはバカと暇人のもの』のなかで、すでに喝破していた。しかし、SNSユートピアを信じる“ウェブ2.0陣営”の呑気のんきな連中は、「この本で書かれていることに触れてはいけない……」と明らかに距離を取り、私のことを腫れもの扱いした。

だが、現実を見てほしい。同書の刊行から11年、インターネットの世界で起きてきた現象や出来事を振り返ってみれば、結局、私が書中で指摘したことが実証され続けてきた歴史ではないか。バカな人間は便利なツールがあろうとなかろうと、バカであり続けるのだ。

リアリティショーはドキュメンタリー仕立ての「ドラマ」

人間のバカさかげんは、生まれ持った知性や人格に加えて、それまでの人生で積み重ねてきた学習量や常識の獲得などによって決まる。

今回、木村さんが苛烈に叩かれるきっかけとなったのは、『テラスハウス』のなかで描かれた「木村さんの大切なリングコスチュームを共同生活する男のひとりが洗濯して縮ませてしまい、それに対して木村さんが激怒する」というくだりだった。感情移入しながら視聴してきた人間にとっては、心がざわつくシーンだったのかもしれない。

だが、これは“リアリティショー”という、ドキュメンタリー風味のドラマなのである。シナリオや演技をどの程度つくり込むかは番組にもよるのだろうが、事前に設定された展開に沿って、演出が加えられた映像なのだ。いちいち「※番組上の演出です」のようなテロップでも表示しないと、それが理解できないのだろうか。

自分の役割に徹し、求められた反応を披露しただけの木村さんに本気で激高し、SNSで容赦なく罵詈雑言を浴びせかけた人々がいたわけだが、こうなってくると悪役はもはや、エンタメの世界に登場できないという事態になりかねない。毒舌が売りの芸能人はその言葉を封印され、プロレスからはヒール役が消滅し、高度な演技力が要求されるからこそ“オイシイ”役どころでもある、悪の親玉を演じてくれる俳優がいなくなってしまう。また、『ウルトラマン』や『仮面ライダー』などのヒーローシリーズでは、終盤になると悪役が正義の主人公に対して「オレはこんなにつらかったんだ……」と悲しい身の上を告白し、最後は握手をして「一緒に世界の平和のために戦おう!」という展開ばかりになるかもしれない。