銭湯のような「地域の社交場」を目指す

経堂の街や商店街の応援団という立場にいた須田さんが、2003年から駒沢や新宿ゴールデン街でのバーの立ち上げ、経営に関わった経験を活かして地元で個人飲食店のオーナーになったのは2009年の6月。前年に地域最後の銭湯「塩原湯」がなくなったことが転機となった。

「銭湯は、江戸時代からずっと地域の社交場となってきた。その銭湯が無くなってしまったので、代わりにご近所さんたちの交流拠点になる場所をつくりたいと思いました」

それが、銭湯のような店名の由来だ。では「さば」はどこから来ているのか?

「2007年にサバ缶による街おこしをスタートしました。十数店舗が参加して、街ぐるみでサバ缶メニューを提供する活動をはじめたんです。ユニークな事例でもあり、メディアにも取り上げられ注目を集め、経堂は『サバ缶の街』として知られるようになりました」

「サバ缶」+「銭湯の湯」で「さばのゆ」。おいしいサバ缶を食べながら、人々が集い、交流する場が誕生した。第1回のイベントは、なぜかアイリッシュミュージックのライブだった。以来、まる10年と半年。その間に開催されたイベントは1500回にもなる。

2011年の東日本大震災で「蘇るサバ缶」がつないだ希望

「さばのゆ」という場所の持つ不思議なパワーを考えるとき、この話を抜きにはできない。2011年3月11日に東日本を襲った大震災では、経堂の商店街が美味しさゆえにひいきにして、複数の店でメニュー化していた「金華サバ」缶の加工会社、木の屋石巻水産も非常に大きな被害を受けた。

歴史的大津波が本社や工場、そして100万個の缶詰を飲み込んだのだ。水が引いた後、建物は原形をとどめないほどのありさまだったが、がれきの下には泥と油にまみれた缶詰が埋まっていた。

「洗えば中身は大丈夫なので」と、泥まみれのままの状態で「さばのゆ」に400個の缶詰が届いたのは4月2日。集まった経堂の人たちやボランティアは黙々と缶詰を洗い、ブルーシートの上で乾燥させた。

写真提供=さばのゆ
被災した石巻の缶詰工場を東京・経堂にとりよせて手洗いし、義援金と引き換えに配った。

だが、いったん泥をかぶった缶詰を正規の売り物にはできない。そこで300円の義援金につき1缶を進呈することにした。初日は50個分、1万5000円の義援金が集まった。

テレビやラジオの報道でこの取り組みを知った人たちが缶詰の購入や洗い作業のボランティアのために続々と経堂を訪れる。泥まみれの缶詰がどんどんやってくる。やがて被災した石巻でも缶詰を洗う作業ができるようになり、紆余曲折がありながらも多くの人の善意と協力によって最終的には22万缶が義援金と交換され、「希望の缶詰」と呼ばれるようになった。この活動が木の屋の工場再建のきっかけとなった。一連の活動のことは須田さんが書いた復興ノンフィクション『蘇るサバ缶』(廣済堂出版)に詳しい。

「経堂の商店街も落語の人情長屋のような感じですが、日本列島も1つの長屋。困った人がいたら、助け合うのが当たり前」――須田さんは、静かにそう語る。