経済的な苦境に陥りながら、国際基督教大学を卒業して西日本新聞の記者となって2年目であった75年のことである。ウェールズ代表が来日し、全国高校ラグビー大会の会場として「聖地」と呼ばれる大阪・花園ラグビー場で日本代表と相まみえた一戦を、その場で見たのである。日本代表が一方的に負けたゲームであったが、ウェールズ代表メンバーが魔術師の集団のように見え、試合終了後、しばらく立ち上がれないほどの衝撃を受けた。

ラグビーの醍醐味を改めて体感し、同時にウェールズ代表の凄みを忘れられず、ついには安定した地元紙記者の職を捨て、学生時代同様に経済的な苦労を伴った末、ついに単身渡英するのである。いずれは教師になろうとも考えていた。やがて、かつて花園で見たウェールズ代表の主要選手を輩出していたカーディフ教育大学に学び、公認コーチの資格を得ることができた。

縁あって帰国後、設立されたばかりの茨城・つくば市にある私立の中高一貫校、茗渓学園に招かれ、英語教師兼中学ラグビー部監督に就いたのが80年、27歳のときのことである。

徳増は、82年に第1回が開催された東日本中学大会の決勝で、古豪の慶應普通部を下し、茗渓学園を創部3年目で初代チャンピオンに導く。88年には高等部の監督になる。そのシーズンでは強豪を相手に勝ち進みながらも、翌89年の決勝戦の当日である1月7日、昭和天皇の崩御によって、自粛ムードから試合は中止となり、相手校の大阪工大高との両校優勝という、どっちつかずの結果を受け入れざるをえなくなった。花園における「昭和最後の優勝校」という称号は、日本人特有の曖昧な判断から、2つの高校に冠されたのである。

学園から、英語教員に専念せよとの命を受け、自らの意思とは関係なく、ラグビー部員たちの指導から切り離される。ラグビーと無縁の日々は、徳増にとって、切なく、悩ましいものがあった。そして、10年間、勤務した茗渓学園を辞すると決めるのである。

新聞広告を元に職を求めて出版社に勤めたりした末、やはりラグビーにかかわる人生を送りたいと、日本ラグビー協会に手紙をしたためた。その手紙に目をとめたのが当時の協会専務理事、白井善三郎である。94年、まだ4人しか職員のいなかった日本ラグビー協会に徳増は採用された。しだいにW杯招致の機運が盛り上がり、その実務レベルの中心となっていくのである。

「日本がリーダーになってくれないか」

目的をなくしたような日々が2カ月ほどつづいていた。

パキスタンで、32カ国からなるアジアラグビー協会(現・アジアラグビー)の理事会があり、理事の徳増は出席した。アジアラグビー協会で支援した日本のW杯招致活動が実を結ばなかったことを、徳増は、報告を兼ねて率直に詫びた。