2011年大会W杯招致投票前夜

2005年11月17日、アイルランドの首都、ダブリン。IRBの理事会が開かれ、6年後の11年ラグビーワールドカップ(W杯)の開催国を決めるプレゼンテーション、そして投票が進められていた。名乗りを上げて最終候補として残ったのはニュージーランド(以下、NZ)、南アフリカ共和国、そして日本の3カ国である。

森 喜朗●1937年、石川県生まれ。早稲田大学商学部卒。日本ラグビー協会会長、ラグビーW杯2019組織員会副会長、日本ラグビー協会名誉会長などを歴任した。

日本ラグビー協会の幹部たちは、2年あまりをかけて、やっとここまで来たかという感慨と、圧倒的に不利な状況に追い込まれている悲壮感に、同時に浸っていた。

ラグビー強豪国の南アフリカは、来る10年サッカーW杯の開催国にすでに決まっており、スタジアムの建設も進んでいた。したがって、ラグビーW杯を開催できる環境も整っていると自信に満ちていて、ほかの理事国も高い関心を示していた。NZは、1987年に第1回W杯をオーストラリアと共催しており、単独での自国開催を熱望していた。国土は日本より狭く、人口は約500万人である。開催国としては南アフリカに劣ると見る関係者が少なくなかった。

しかしながら、南アフリカとNZの招致団には、世界的に知られたスター級の元選手がリーダー格にいて、プレゼンテーションでは日本を圧倒した。

眞下 昇●ラグビーW杯2019組織委員会エグゼクティブアドバイザー。1938年、東京都生まれ。トップレフリーとして活躍した後、日本ラグビー協会専務理事、副会長などを歴任。

日本の招致団は、元首相で日本ラグビー協会会長の森喜朗を筆頭に、元外務事務次官で駐イギリス日本大使の野上義二、協会専務理事でW杯招致実行委員会委員長の眞下昇らが幹部として居並んでいた。森が早稲田大学ラグビー部OBであることは、日本国内では広く知られている。野上は、都立日比谷高校ラグビー部時代に全国ベスト8に入っており、眞下は伝統校の群馬県立高崎高校、東京教育大学(現・筑波大学)、そして社会人時代とラグビーに打ち込み、現役引退後はレフリーとして国際試合でもホイッスルを吹いていた。

森や眞下らとともに2003年から各国を巡ってロビー活動をしてきた協会の国際部長で主要な通訳者でもあった徳増浩司も、期待と同時に危機感を抱いていた。

IRBの規定と要請に基づき、W杯日本大会が実現した場合の全48試合のスケジュール、グラウンドの整備、各国の選手やスタッフの移動手段、宿泊ホテル、入場料収入のシミュレーションなど、限られた日本ラグビー協会のスタッフたちとともに練り上げてきた。ここに至る終盤の5カ月ほどの間、徳増は、まともに休めたのが2日か3日かというほどであり、苦闘の日々を思い返していた。