岩波書店「思想」に掲載された論文
西欧政治思想史の泰斗で、日本を代表する政治学者で83歳で亡くなった福田歓一の「お別れの会」がもたれたのは昨年の2月。クリスチャンである福田が、かつて学長を務めた明治学院大学の一室で厳かに行われた。数多くの教え子を代表して小柄な外国人女性が挨拶をした。
「将来外交官になると先生に約束しながら、実現できなかったことを悔やみます」
美しい日本語で心のこもった師の思い出を語る女性こそ西田と東芝を結びつけた西田夫人だった。
イラン出身の夫人とは彼女の留学先である東京大学大学院で出会う。西田は早稲田大学政治経済学部を卒業後、東大大学院の門を叩き、法学政治学研究科に籍を置いていた。ゼミの担任は福田歓一。丸山真男と並び称された政治学の大家である。東大内部からでさえ福田ゼミに入るのは至難の業といわれていた時代、学外から福田ゼミに入れたこと自体が西田の学問のレベルの高さを証明している。
西田夫人は1年後輩だった。西田夫人と同じ学年で、福田に最も近い継承者である成蹊大学教授、加藤節によれば、福田の指導は峻厳そのもので、論理的な矛盾などは一片たりとも許されるものではなかったという。一語一語の解釈、その言葉の歴史的な背景、それを選択した理由などをとことん叩き込まれた。西田は福田が目をかけた学生の中の1人だった。
岩波書店「思想」1970年8月号に当時27歳の西田が寄稿した論文が掲載されている。タイトルは「フッサール現象学と相互主観性」。修士課程でフッサールを、博士課程ではフィヒテを研究していた西田はドイツ語で文献を読み、ドイツ語で論文を書いていた。当時、「思想」の顧問をしていた福田がその将来を嘱望し、結果、西田の論文が掲載されたのである。実は、修士課程のときに西田と夫人はイランで結婚式をあげていたが、結婚を周辺に漏らすことはなかった。