土光敏夫が決断したイラン現地法人設立

西田が東大で西洋政治思想を学んでいた頃、当時の東芝社長、土光敏夫は1つの決断をしていた。中東、ヨーロッパの市場をにらんだ拠点をイランにつくるために、現地法人パース東芝工業が設立された。

当時、43歳の深田文敏が本社の事業部長に呼ばれ、イラン行きを告げられる。深田は横須賀工場で製造部長になったばかりだったが、深田が選ばれた理由は、土光の「1番若い奴を選べ」という鶴の一声だった。夫婦で世界地図を見てイランと探したほど未知な国で、すべてが模索しながらの創業だった。蛍光灯、電球の製造に始まり、後には扇風機、電気釜、ミキサーなどを現地生産する工場はカスピ海沿岸の街、ラシュトに置かれた。

現地法人が立ち上がって間もない頃、イラン政府との交渉、言葉の問題などで七転八倒していた深田はファルディン・モタメディという女性の訪問を受けた。この現地法人で働かせてほしいというものだった。深田を驚かせたのはそのきれいな日本語だった。

「どこで日本語を勉強したの?」

「東京に5、6年いました。東京大学に留学していました」

女性の答えに思わず、深田は「凄いじゃないか」といったほどだ。翌日からファルディン・モタメディこと西田夫人は深田の秘書として、それも飛び切り優秀な秘書として働き始める。彼女の一族は当時の政権内にもいるほどの名門で、しかも英語も堪能だった。