「また、不時着した時も翼がありますからパイロットは守られる。単葉ですから複葉機よりも軽い。その後、中島飛行機のみならずゼロ戦や他社の戦闘機もこの構造になっていく。日本の飛行機の構造を決めたのがマリー技師と小山さんなんです」
マリー、ロバン、小山は共同で戦闘機NC型を作り上げ、1928年のコンペに勝ちぬくことができた。NC型とは前述した全金属製の機体で、後に九一式戦闘機として陸軍に制式採用される。むろん、日本最初の単葉戦闘機だった。
「生きて帰るな」ではない特攻の意味
開戦してから、中島飛行機は次々と飛行機を開発し、実用化していった。1941年、中島飛行機は百式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」を陸軍に納める。翌42年には陸軍向けに二式戦闘機「鍾馗」、海軍向けに二式陸上偵察機、二式水上戦闘機を開発、制式採用になる。
43年には海軍向けの二機、艦上攻撃機「天山」、夜間戦闘機「月光」。44年、艦上偵察機「彩雲(さいうん)」(海軍)、四式戦闘機「疾風」(陸軍)、四発陸上攻撃機「連山」の試作を完成。敗戦の年、45年には特殊攻撃機「剣(つるぎ)」(陸軍)、特殊攻撃機でジェットエンジンの「橘花(きっか)」(海軍)をそれぞれ試作している。
このなかで「剣」は特殊攻撃機となっている。特殊攻撃機とはつまり、特攻機のことだ。敵の空母を使えなくするために体当たり攻撃をせよというのが特攻の目的で、「生きて帰ってくるな」「燃料は片道だけでいい」といった命令自体があったわけではない。
しかし、通常よりも重い爆装をして、飛んでいくわけだから、よろよろしていて空母からの弾にも当たりやすい。不時着して救助してもらう以外、生き残る道はないのが特殊攻撃機だ。結果的には大勢の兵士の命を奪う作戦が特攻作戦だったのである。
信条を守れず、搭乗者を大勢死なせた苦悩
戦争末期、自分が設計した隼やそのほかの戦闘機が特攻に使われていることを小山をはじめとする技術者たちは分かっていた。軍からの命令だからやらざるを得ない。しかし、「搭乗者の安全」を信じてきた設計者が搭乗者を黙って死なせる飛行機を作る。それは相当な負担だった。
戦後、ゼロ戦の堀越二郎はYS11の開発など、復活した航空業界で活躍した。しかし、小山は岩手県に移住し、林業の研究、チェーンソーの開発などに尽くし、航空機の設計からは遠ざかった。ある時、出版社から本の執筆を頼まれたけれど、彼は断り、次のように答えている。
「われわれが設計した飛行機で亡くなった方もたくさんあることを思うと、いまさらキ27(九七式戦闘機)がよかったとかキ84(疾風)がどうだったと書く気になれません」
ただ、特攻機の剣、橘花ともに実際の運用はしていない。試作、開発をする前に戦争が終わったからだ。小山の心がほんの少し安らぐとすれば、特攻だけを目的とした機体の設計はしたものの、それが空を飛ぶことなしに終わったことだったのかもしれない。
※この連載は2019年12月に『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)として2019年12月18日に刊行予定です。