2つ目ですが、生き方に関する価値観を、「他人に認められたい」といういわゆる承認欲求から離れて確立することです。今、日本のみならず世界中でなぜか「人や社会の役に立たなければならない」という“社会貢献競争”が起きているように感じます。それが多くの人のコンプレックスの源になっていると思うんです。でも、そんな競争からは降りても構わないんじゃないでしょうか。

ある哲学者が「人への貢献は、森にいるリスみたいなもの」とうまいことを言っていました。リスは自分が手に入れたドングリを地中深く埋めます。それは何かの役に立てるためじゃなくて、後で自分が食べるため。でも、リスは埋めたまま忘れちゃうんです。でも、そのドングリが芽を出して成長し、森が形成され、いろんな生き物が助かるわけです。

要は、自分のためだけにやっているつもりでも、結果的に世の中のためになるものだ、というわけです。「人に褒められること」にとらわれず、好きなことに没頭する人が多いことで成り立っている社会であれば、それは凄い社会だと思います。

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滅茶苦茶好きなことをやっている人たちは、客観的な価値はさておき、主観的な幸福度では誰も勝てません。私は学生の頃、熱帯魚を狂ったように飼っていました。可愛くて仕方がないんです。「何の意味があるの?」と聞かれても、「放っといてよ、楽しいんだから」と。ちなみに熱帯魚好きが友人の間で伝染して、飼育方法などで教えを請われるようにもなりました。そのうちの1人は沖縄で水族館に勤めるまでになり、天職に出合えたとえらく感謝されています。

今でも私の趣味の1つは、水族館巡りやスキューバダイビング。仕事で香港に移ったときも、週末は熱帯魚屋通いでした。結局、昔好きだったことに返ってくるんですよね。

「こういう趣味だと、教養人として尊敬される」という承認欲求で趣味を選ぶのは、本末転倒です。承認欲求を離れ、自分が好きなことを知ることが、重要なのです。

教養を語るうえで最も重要なのが、人間の本質を理解しているかどうか、つまり自分と他人の行動原理を理解しているかどうかではないでしょうか。最近、近著(KADOKAWA刊『「あれ、私なんのために働いてるんだっけ?」と思ったら読む 最高の生き方』)のために霊長類学、宗教学、哲学、アドラー心理学、脳科学のそうそうたる泰斗を訪ね、人間の幸福と行動原理の本質について議論しました。