2年半、陸上競技から離れても、諦めなかった

失業中も、特別支援学級の臨時職員時代にも、陸上競技の大会に足を運ぶなどして情報をアップデートさせました。私にとっては、爪を磨いておく作業でした。そのかいがあったのか、実業団のNECから声がかかり、1999年8月に男子陸上競技部のコーチに採用されました。

刊行記念のトークイベントは親交のある作家・黒木亮氏との対談形式で開催。学校の先生や部下に指導する立場にあるビジネスパーソンなどが80人余り集まった(写真=ベースボール・マガジン社)

当時のNECは実績のあるチームで、やりがいを感じていました。ですが、思うようにいかないもので、2003年春に廃部を宣告されました。頑張っていても、どうにもならないことがある。私はまたしても、そう痛感させられたのです。

コーチの職を解かれたものの、会社には残ることになり、設立されたばかりの特例子会社で働き始めました。障がい者の雇用に配慮した企業でのジョブコーチで、特別支援学級で勤務した経験が思わぬ形で生きることとなりました。決して楽な仕事ではありませんでしたが、障がい者に教えると同時に、私も彼らから学ぶことがありました。

その間は約2年半、陸上競技の世界から離れていましたが、いずれ指導者に復帰したいという希望は捨てていませんでした。しかし、待っていて声がかかるものでもない。倒産や廃部を経験して、私自身も慎重になっていたのかもしれません。

常に爪を磨いていたものの、覚悟はしていました。「あと数カ月のうちに何もなかったら、この先も声がかかることはない」と……。そんなときに、帝京大学から駅伝競走部監督の打診があったのです。私は42歳で現職に就きました。

「日本一諦めの悪いチーム」をつくるために

今だから言えますが、倒産も廃部も、私には必要な経験だったのでしょう。スムーズにいかないのが、私の人生なのかもしれません。逆境をはね返すことなどできない。現実を受け入れなくてはならないのです。自分ではどうすることもできないのだから、次のことを考えるしかない。箱根駅伝を走って下位に沈んだときもそうでしたが、このままでは終わらせたくないという気持ちは常にありました。人生というのは、一度何かが壊れても、また新しいものをつくることで成長する。私にとってはそんな時期だったのだと、今は感じます。

私は帝京大学駅伝競走部を、“日本一諦めの悪いチーム”にしたいと思って指導に当たってきました。そもそも私自身が現役時代は諦めの悪い選手でしたし、いまでは日本一諦めの悪い指導者だからです。

「日本一諦めの悪い」とは、かっこいい言葉ではないかもしれませんが、諦めなければ、困難にぶち当たったときでも道を切り開いてゆけるのですから。