会社の倒産でチームは解散、コーチも解雇

スケートが盛んな北海道白糠町で生まれ育った私は、地元の高校を卒業後、国士舘大学に進学して、あこがれだった箱根駅伝を4年連続で走ることができました。勧誘してくれた実業団もありましたが、当時新興チームだった雪印乳業に入ることをどうしても諦めきれず、自ら手紙を送り、門をたたきました。

帝京大学駅伝競走部 中野孝行監督(撮影=和田悟志

入社から約10年間、競技を続けた後、1995年に縁あって実業団女子の三田工業のコーチに就きました。

指導者としての道を歩み始め、充実した日々でした。しかし、その日は突然やってきました。

忘れもしない、1998年8月10日のこと。北海道で合宿中だった私たちに、会社の上層部から連絡が入ったのです。

「あなたたちは9月いっぱいで解雇です」

会社の倒産による、非情な通告でした。だれも責めようがないのですが、あの時ばかりは海底に沈められたような気持ちになりました。

三田工業が拠点にしていた大阪から、雪印乳業時代に過ごした千葉に引っ越したものの、再就職先はすぐには決まりません。それでも、このままではいけないと思い立ち、船橋市の臨時職員に応募して、1999年4月付で採用されました。配属先は小学校の特別支援学級でした。

生活のため特別支援学級の臨時職員に

児童のなかには行動の予測がつかない多動症の子がおり、雨の日でも外に出て泥遊びに夢中です。「汚れるから戻ってきなさい」と注意する先生もいましたが、私の上司に当たる先生は、「飽きたら帰ってきますから、やらせてください」とおっしゃって、気長に児童と接していました。その通りだなと、私は時間をかけて待つことを知りました。

当時の経験は、現在の学生指導に生きています。児童の泥遊びと同じように、学生たちがやってみたいことがあれば、どんどんやらせた方がいい。彼らは本当に価値のあることだと思うからやるのです。全部が全部うまくいかなくとも、彼らがそれで成長し、自分で考えられるようになればいい、というのが私の考えです。

55歳になる私も、いまだにやりたいことだらけです。子どもだな、と思われるかもしれませんが、何か新しいことをやりたい。常に前に進みたいと思うこと、そして思うだけではなく、行動に移すことが大切ではないでしょうか。

最近はいい子になりたい学生が多いのか、思うことや口に出すことは簡単でも、実際に行動に移すことはなかなかできない。自分から動いて、どんどんやんちゃになってくれていいのです。