批判されるほど価値が高まるナチス的意匠

このナチス=親衛隊=絶対悪のイメージは、ドキュメンタリーや映画などによって広められ、それに影響を受けた者によってまた広められ……と繰り返されるなかで強化されていった。そして、常識や良識を逆なでしたい、社会に反抗したいという、サブカルチャー的な感性を痛く刺激する「魅力的な」存在へと成長した。

この「悪の標準器」には、一般的な批判が通用しない。なぜなら、批判されればされるほど、その価値はむしろ高まるからである。

世を騒がせるナチス的意匠の多くは、こうした分脈で理解されるべきであって、レイシストや歴史修正主義などとの批判は、かならずしも的を射ていない。

問題は意匠そのものではなく「使われ方」

インターネット以前の社会では、このようなナチス的意匠を愛好するサブカルチャーも大目に見られていたところがあった。今日のように情報が容易に拡散しなかったことも大きい。だが、もはやそのような呑気な時代は終わった。

グローバルな市場で勝負するアーティストたちは、よほど表現したいものがそこにない限り、これ以上ナチス的意匠を用いないほうが無難だろう。所属事務所は、こうしたシンボルやマークについて、事前にチェックする仕組みを作ったほうがいい。

ただ、このような振る舞いは企業や集団の炎上対策にすぎない。個人としては、その先をもう少し考えておきたい。

ナチスの意匠は、そもそもなにが問題なのか。意匠そのものが直ちに有害というわけではない(歴史的な経緯から不愉快に思う人はいるだろうが)。それよりも、問題はその使われ方である。