事業撤退、リストラ、買収
―武田國男、すさまじき「断じて敢行」の精神

<strong>武田國男●武田薬品工業会長</strong><br>1940年、兵庫県生まれ。62年甲南大学経済学部を卒業後、武田薬品工業に入社。87年取締役、89年常務、91年専務、92年副社長、93年社長。2003年より現職。創業家六代目武田長兵衛の三男。副社長だった長兄の急逝で武田家の後継者に。医薬品事業に経営資源を集中させる大改革を行い、01年度には業界初となる連結売上高1兆円を達成した。
武田國男●武田薬品工業会長
1940年、兵庫県生まれ。62年甲南大学経済学部を卒業後、武田薬品工業に入社。87年取締役、89年常務、91年専務、92年副社長、93年社長。2003年より現職。創業家六代目武田長兵衛の三男。副社長だった長兄の急逝で武田家の後継者に。医薬品事業に経営資源を集中させる大改革を行い、01年度には業界初となる連結売上高1兆円を達成した。

この人の破壊力も、すさまじい。それが、すべて「武田薬品のために」に集中していて、言動はブレない。話を聞いていると、いつも中国の歴史書『史記』に出てくる「断じて敢行すれば、鬼神もこれを避く」という言葉が浮かぶ。

1993年6月からの社長在任10年間。事業の「選択と集中」を、徹底的に進めた。父が展開したビタミン剤、化学、食品、農薬、畜産などの事業から次々に撤収。「医薬の成功理念と他の事業とは違う。化学は大きな設備投資が必要で、需要の変動に苦しむ。食品は、売れ筋がどんどん変わる」などと、どの部門も同じように扱う役員らに雷を落とし続けた。不採算な工場や研究所は閉め、社員も取締役も思い切って減らし、全社に目標管理式の評価制度を導入する。

まさに「過去」の破壊だ。当然、社内の抵抗は強く、本社周辺の飲み屋では連夜、「人でなし」「鬼」という言葉が飛び交う。だが、気にしない。でも、やはりストレスは大きかったのか、96年に膀胱がんが発症。それでも、手術は延期して株主総会を乗り切り、秋の中間決算の発表には坊主頭で出席。病気を公表し、完治も宣言した。

当時、武田薬品も大企業病に陥っていた。入社して20年、次期社長が確定していた長兄とは対照的に、食品事業など傍流にいた。それゆえ、会社のアラがよくみえた。どこをどうすれば業績が上がるか、自分ならどうすると、そっと考えていた。

だから、長兄の急死、半年後の父の死で武田家を継ぐ立場になったときに、迷いはない。「断じて敢行」により、在任10年の累積利益は9057億円。株価は1350円から4430円へ上がる。

その改革論は、簡明だ。

「実行あるのみ。社長は本気だ、と社員に思わせることが、何よりも大事」

周囲に、祖父や父が好んだ「運・根・鈍」の書が置いてある。よく言う「運・鈍・根」の順ではない。父から「三男坊に経営者となる可能性が巡ってきたのだから、お前には運がある。ただ、運は、努力せんと逃げてしまう。目標に向かってこつこつ根気よくやれば、いつかは報われる。根だ。秀才は、パッと先を見て動き、逃げ道もみつけるから、伸びないことがある。だから、もう一つ必要なのが鈍だ。純粋に努力するのが、鈍や」と言われた。いわば、武田家の家訓だ。

だが、そういうことを尋ねると、「そんなこと、考えておりませんよ」と笑ってそらす。恥ずかしがり屋の一面。それも、リーダーとしての魅力だ。

武田薬品は今年5月、米国のバイオ医薬品メーカーのミレニアムを88億6000万ドル(当時の換算で約9600億円)で買収した。薬価の低下で、国内の市場は厳しさを増している。海外への展開は、勝ち抜くためのカギ。ただ、直前の3月期に利益剰余金が2兆5000億円に達していたとはいえ、日本企業による現金での外国企業買収としては史上四番目の大型投資。当然ながら、武田さんも熟慮した。

賛同した決め手は、がん治療薬への強い思いだった。「いま、世界で最も死因として多いのは、がんです。買収で抗がん剤の新薬開発ができて、がん患者の役に立つことができれば、薬品メーカーとしての誉れです」――買収から半年、武田さんは、何度となく、こう繰り返す。

そんな武田さんが24時間、365日、武田薬品のことばかりを考えていることを、部下たちは、よく知っている。

(撮影=奥村 森、芳地博之、尾関裕士)