地下鉄サリン事件まで、その狂気に気付いていなかった

佐藤優、片山杜秀『平成史』(小学館)

【佐藤】片山さんがキーレーンの演奏会を聞いた93年頃はオウム真理教が松本サリン事件を起こす前年ですね。そして95年3月20日の地下鉄サリンにつながっていく。

【片山】地下鉄サリン事件の日はよく覚えています。

事件の起きたあと、当日の午後ですが、ピアノ調律師で坂本龍一を世に出したことでも知られる音楽プロデューサーの原田力男さんのお見舞いに行ったんです。東急田園都市線沿いにある病院でした。

末期がんで入院していた原田さんがベッドの上にちょこんと座ってテレビで、サリン事件の報道を見ていた。私は「いま外に出たら何が起こるか分からないけれど、病院の中なら安心ですよ」なんて慰めにもならない言葉をかけた。

【佐藤】地下鉄サリン事件では、埼玉県の大宮駐屯地から完全防備の化学防護隊がすぐに駆けつけた。あの映像を見て、私は日本の化学戦対応能力は決して低くないと感心しました。警察はまだカナリアに頼っていたわけだから。

実は地下鉄サリン事件の6日後、3月末日に東京に戻る私のためにロシア人たちがモスクワでお別れパーティを開いてくれたんです。ロシア人の間でもオウムの話題で持ちきりでした。

【片山】オウム真理教は、キーレーンに代表されるようにロシアと縁の深い新興宗教だった。ロシアではどのように受け止められていたんですか?

【佐藤】麻原彰晃の定宿だったモスクワのオリンピック・ペンタホテルにプルシャ(オウム真理教のバッジ)を着けた信者が集まって話題になったり、モスクワ放送で「オウム真理教放送」というラジオ番組を流したりしていた。

そしてサリン事件の2、3年前から家族が入信して困っているという相談が日本大使館に寄せられはじめた。

【片山】サリン事件前まで日本ではオウム真理教の攻撃性や狂気に気づいている人は少なかった。宗教学者の中沢新一や島田裕巳らもオウム真理教に理解を示していた。

一般的にも神秘主義的でオカルト、超能力を売りにしているけど、平和的な宗教団体という認識でした。夜中に自宅のポストに麻原彰晃の伝記マンガ入りの広報誌が投げこまれていたりして、やや不気味にも思いましたが。