なぜ説得力があるかというと、脂ぎったオッサン活動家が従軍慰安婦を「無かった」というよりも、被害者の同性側、つまり女性から否定された方が、より男性的には得心の度が強まるからだ。要するに男からすると、「女がそう言っているのだからそうに違いない」と溜飲を下げられる。ネット右翼が3:1の割合で男性に著しく偏重しているのは私の調査だが、私の観るところ杉田のファンには男性が多い。

男性的価値観への無批判な追従

本人の無意識か意識的かは分からないが、女性側から男性の自尊心やプライドをくすぐる事を言うことで、杉田はネット右翼から熱狂的な支持を獲得してきた。それは男性的価値観への無批判な追従であり、要するに男性寡占世界に於いての男へのヨイショと「媚び」なのである。これを現代風に言えば、男性寡占社会の中に紅一点の女性が入り込み、彼らの自尊心をくすぐる事(あるいはくすぐり続ける事)で歓心を買う「オタサーの姫」と相似形である。繰り返すように私はこれを杉田が意図的にやっているかどうかまでは断定していない。ただその構造を指摘しているだけだ。

であるから、主にアメリカにおいて在米韓国人団体などが慰安婦像を建立していることに対して、反対の前衛に立ってネット右翼から注目を得ているのは男性ではなく女性活動家であり、その象徴的な例が、山本優美子氏を代表する日本の女性市民団体『なでしこアクション』なのである。

ところが少し立ち止まって考えてみると、一般的に性暴力の被害者である女性の側が、同性への性被害を「無かった」として擁護するのは国際潮流に反した奇観なのではないか。ハリウッドでの女優やモデルらの告発にはじまったいわゆる「#MeToo」問題にしても、被害者と同じ「性」であり、その苦衷を想像できるはずの女性が「そんなものはない」と批判し、加害者側に加担し、男性側に同化する現象を私は観たことが無い。

「性奴隷」と形容するかは、表現のギミックにすぎない

私は、女性が日本軍の慰安婦問題に関わるべきでは無い、といっているのでは無いが、日本軍の慰安婦問題は秦郁彦氏を中心とする実証史学の分野ですでに結論が出そろっており、性に関係なく、この問題を歴史家では無い政治活動家が俎上に載せても、国際世論への公論惹起にはつながらないのではないかと思う。

実際に日本政府は、公式に従軍慰安婦の存在を認め、そこに日本軍の関与を認めるばかりか、村山・河野の談話において公式的立場として謝罪と賠償の意味での基金設立を行っている。2015年に安倍晋三・朴槿恵両首脳で合意されたいわゆる「慰安婦合意」でも、日本は公的に韓国(朝鮮)出身の慰安婦の供出と管理に、日本軍が関与していることを認めた上で、「最終的かつ不可逆的に」と結論してこの問題の最終解決が合意されたものである。

論点はこれを「性奴隷」と形容することがふさわしいか否かであるが、それは史学での検証と言うよりも表現のギミックの範疇に入ると思う。