南京事件における「百人斬り訴訟」の弁護を務めたことで保守派の注目を集めた稲田朋美氏。その後は衆院議員、防衛大臣とステップアップしたが、PKO部隊の日報問題で辞任した。文筆家の古谷経衡氏は「よく言えば無垢、悪く言えば無教養。防衛大臣という重責を果たす実力がないにもかかわらず、ゲタを履かされた状態で任され、そして自業自得の如く自滅した」と分析する――。

※本稿は、古谷経衡『女政治家の通信簿』(小学館新書)の一部を再編集したものです。

稲田朋美 元防衛大臣
1959年生まれ。福井県越前市出身。早稲田大学法学部卒。弁護士として、南京事件における「百人斬り」報道名誉毀損訴訟に携わり、保守論壇で注目を集める。2005年郵政選挙にて「刺客候補」として出馬(福井1区)、当選。第二次安倍政権で防衛大臣を務めるも、17年、PKO部隊の日報問題で辞任。
画/ぼうごなつこ

2005年の総選挙(郵政選挙)での当選以来、福井1区から代議士としてのキャリアを重ねた稲田朋美が、安倍総理からの「寵愛」ともとれる厚遇を受けるとともに、入閣前から圧倒的なネット右翼からの熱狂的支持を集めたのも、この「漠然と全部右」の世界観ゆえであろう。

稲田朋美には保守の世界観や、タカ派的価値観が虫食い状に存在するだけで、そこに体系的なものを発見することができない。後述するように、この虫食い状の「保守色」は、稲田が「30歳まで東京裁判のことをほとんど知らなかった」という後天性を有するためである。だからこそ稲田の世界観には筋の通った体系的な保守的世界観がない代わりに、漠然と当世の保守やネット右翼が好むものをトレースする態度がうかがわれる。

当時、ネット上での愛称は「ともちん」。小池と並んで「初の女性総理待望論」まで出るほど、彼女の見せかけの評価はうなぎ登りであった。

そんな稲田に、第二次安倍政権で入閣の秋波が送られたのは必然の理、と言える。

事実、2012年の自民党総裁選では、第1回投票において地方票で圧倒した石破茂を安倍晋三が破った際、最初から安倍の推薦人に名を連ねていたのは稲田だ。稲田は小泉チルドレンであると同時に安倍チルドレンであり、安倍の重臣のひとりであった。しかしこれは稲田に実力があったからではない。

熱狂的な支持のきっかけは「百人斬り訴訟」

そもそもなぜ稲田はネット右翼から熱狂的な支持を受けるに至り、「ともちん」の愛称で呼ばれるほどの「アイドル」として登場してきたのか。きっかけは2003年。弁護士であった稲田が毎日新聞、朝日新聞、そして朝日新聞記者を相手どり「百人斬り訴訟」裁判の原告側代理人を務めたことである。

「百人斬り訴訟」とは日中戦争当時、南京攻略戦(行軍中)に際して日本陸軍の野田毅少尉と向井敏明少尉の両名(階級は事件当時)が、敵軍(中国国民党軍)兵士百名の首数を競ったという、「百人斬り競争」なる戦時中の新聞報道に対する、遺族らからの「名誉回復」を求める趣旨の提訴(2003年)である。当時の報道は、東京日日新聞等で行われ、多くの後追い報道やそれを前提とした書籍等が出たが、この東京日日新聞がのちの毎日新聞となる。