つまり半世紀以上前の記事の内容を名誉棄損であるとして、遺族らが訴えるという裁判の弁護人を引き受けたのが稲田であった。そして簡潔に言えば、この裁判は、毎日新聞・朝日新聞というリベラル系メディア批判を梃子に、「南京大虐殺は無かった」「南京大虐殺はでっち上げ」という、当時保守派一般に認知されていた主張を全面的に肯定する運動の中心となり、その主張に稲田が弁護士として共感し、その弁護活動に奔走したことになる。

古谷経衡『女政治家の通信簿』(小学館新書)

しかしこの「百人斬り訴訟」は、野田・向井両名の遺族からの名誉回復が本義であると同時に、「南京大虐殺はでっちあげ」論を司法の場で認定させ、そして右派側からみれば仇敵たる既存のリベラルメディア、つまり毎日新聞や朝日新聞攻撃の嚆矢(こうし)としよう、という一種の右派イデオロギー運動に移り変わっていたのである。

結果、この裁判は東京地裁に原告請求が全面棄却される。その後、原告は東京高裁に控訴したがこれも原告請求棄却、と結論は同じ。結局、上告審である最高裁でも結論は同じで、原告敗訴が確定した。なぜなら裁判所によって「百人斬り」は「全くの虚偽であると認めることはできない」と認定されたからである。稲田はとんだ歴史修正主義をかざして訴訟に及んだものの、司法の場からその主張を却下されたのである。

稲田が原告代理人をつとめた「百人斬り訴訟」を皮切りに、右派によるリベラルメディアに対する濫訴はエスカレートした。裁判の勝敗はともかく、「既存のリベラルメディアを糾弾する運動」は、当時のネット界隈を巻き込んで一大保守運動に発展したのであり、この契機を作った1人が稲田であると言えるのである。

右派的世界観に「ある日、目覚めた」

ゼロ年代中盤、保守界隈の中で「南京大虐殺否定」は一種の保守運動のトレンドであった。稲田は「百人斬り訴訟」に負けたとはいえその功績大なりとして、2005年に保守系論壇誌『正論』にデビュー。本格的に保守系言論人としての箔を付けていくことになる。

稲田の自伝的エッセイ、『私は日本を守りたい─家族、ふるさと、わが祖国』(PHP研究所、後半は櫻井よしことの対談を収録)では、保守界隈とネット右翼に共通する世界観を、稲田が見事なまでにトレースしている様と、本人の愛国心「覚醒」の経緯が、縷々本人の手で詳述されている。

稲田が同書の中で、「私の政治家としての原点」としての人生観を開陳する冒頭部分に、稲田の世界観の全てが凝縮されている。「30歳を過ぎるころ」まで政治や歴史に何の関心も持たなかった市井の人々が、ひょんなことから右派的世界観に開眼する。ネット右翼の常套句として「目覚める」という表現がある。それまで左派メディアの洗脳による間違った歴史観に洗脳されていたが、或る日を契機に目覚めた──というものだ。