福島県いわき市の温泉テーマパーク「スパリゾートハワイアンズ」。その前身は炭鉱だ。約50年前に“炭鉱から観光へ”という業種転換を成し遂げ、2011年の震災からもV字回復を果たした。そのたくましい企業風土の根幹には、「東京のプロを呼ばずに、すべて炭鉱出身者でやる」という創業者の信念があった――。

※本稿は『「東北のハワイ」は、なぜV字回復したのか』(集英社新書)の一部を再編集したものです。

スパリゾートハワイアンズのフラガールたち(写真=常磐興産)

働く人間も家族もすべてが運命共同体

常磐炭礦(じょうばんたんこう)に限らず、全国どこの炭鉱も常に危険と隣り合わせの職場である。落盤やガス爆発、さらには出水など不測の事態が起こり、最悪、死に至ることも珍しくない現実がある。そのことを炭鉱に働いている人間はもちろん、家族の誰もが知っている。

そんな中、常磐炭礦には精神的な支柱ともいえる独自の考え方が、いつとはなく自然に芽生えていた。

それが「一山一家」という、ヤマで働くすべての人間が家族であり、常に助け合って生きていこうという考え方だ。かつて夕張や筑豊など日本中に数多くの炭鉱があったが、他の炭鉱には、この「一山一家」という言葉はない。まさに常磐炭礦ならではのユニークな考え方である。

大正から昭和にかけて石炭業が隆盛を極めた頃、常磐炭礦は全国各地から炭鉱労働者を集めた。採炭にもっとも必要なのは人の力だったからだ。そのため、会社は炭鉱の周辺に従業員たちの住宅、いわゆる炭住(炭鉱住宅)を造り、200戸ごとに日常生活の面倒を見る「世話所」を設けた。

世話所は葬式や結婚式などの冠婚葬祭はもちろん、子供の誕生や就職などすべての面倒を見た。しかも、炭住に住んでいる家庭のことなら、全員の誕生日からそれぞれの趣味や食べ物の好き嫌い、はては奥さんの生理日まで何でも把握していたという。

それは、炭鉱に働く人間も家族もすべてが文字通りの運命共同体だったからである。その中で何かに困っている人、悩んでいる人がいれば放っておかない。いや、そういう人がいれば、むしろ積極的にみんなで助け合って生きていこうという風土が、ごく自然にできあがっていったのだ。

そして、そうした風潮がハワイアンセンター(現・スパリゾートハワイアンズ)の設立と、その後の運営にも大きく影響していることはいうまでもない。

ヤマの男がスーツ姿でフロントに

そもそも中村(注・中村豊、ハワイアンセンター創業者)には一つの信念があった。それは、「常磐炭礦の一山一家の団結を強めて、他人の手は借りない。苦しくてもすべて自前でやる」ということだ。

だから、建物の設計についても外部の設計者やコンサルタントなどは誰一人として入れず、構想や企画はすべて中村自身が立て、実際の設計や施工は子会社である常磐開発(JASDAQ上場。現在はグループ会社)が行った。