批評家の宇野常寛氏は、今年9月、2年あまり務めていた『スッキリ』(日本テレビ)のコメンテーターを降板した。その理由について宇野氏は「街宣車が来るなど、ネット右翼の圧力があった」としたうえで、「ネット右翼を笑っていたかつての自分に報復されている」と総括する。なぜオタクは右傾化したのか。新著『母性のディストピア』(集英社)の刊行にあわせて、ロングインタビューをお届けする――。(中編、全3回)

結論よりも過程を見せたかった

――『母性のディストピア』は、宮崎駿、富野由悠季、押井守という3人のアニメ作家を中心的に論じています。しかし1部と2部は政治と文学、6部は情報社会がテーマです。なぜ3人の評論の前後に、一見無関係にも思える内容が展開されているのでしょうか。

この本は1部、2部、6部だけでも1冊の本になるんです。そこを読むだけでも大筋はわかります。でも、「なぜ僕がこう考えているのか」という理論のコアは、特に4部の富野由悠季論と5部の押井守論を読まないとわからない。つまり、僕は『母性のディストピア』で情報社会論をある種の性的なメタファーで論じているのですが、その接続部分は富野由悠季論と押井守論を読まないと正確には理解できないはずです。僕は、結論だけではなく、「なぜこう考えているのか」という過程が大事だと思うんです。

――結論に至る過程が大事である。

ソーシャルメディアが登場して以降、言論はキャッチフレーズ的なものばかりになっていると思うんです。そうではなく、しっかり過程を見てほしい。

ここ数年支持を受けた本ってだいたい2パターンで、要は(グローバル化に負けないように)「がんばれ」って啓発している自己啓発本か、(情報社会に流されないように)「バランスを取って生きよう」という説教本なんですよね。

僕はこれらの本のメッセージに特に反論もない。「夏場はマメに水分補給した方がいい」みたいなことに特に意見はないんですよ。「うん、そうだよね」としか思わない。だからそういうのとは違う、もうすこし具体的で、賭けのあることを書きたかったし、結論よりも過程を見せたかったんですよね。

冒頭にも書いたのですが、この本のもうひとつのテーマは「虚構だけが描くことのできる現実がある」というアイロニーなんですよね。

アニメや特撮でなければ「戦争」を描けない

――「虚構だけが描くことのできる現実」とは?

それをこの本では戦後日本の「ゴジラの命題」として書きました。

この国の戦後という時間は、現実の一部を、それももっとも根源的に私たちの生を支配するものを、究極的には虚構化することでしか描くことができなかった時間でもある。ジャンルとしての反戦映画、戦記映画が無数に生まれていったその反面、戦後という時代そのものを成立させていた冷戦下における戦争というシステムそれ自体については、思考することも表現することも放棄していたのが戦後という時間であった。そして、この忘却と思考停止の時代下において結果的にもっとも深く戦争というシステムとそれによってもたらされる私たちの心理についてアプローチし得たのが、アニメであり特撮であったことは、これまで確認してきた通りだ。それは虚構化することでしか現実を描くことを禁じられた社会の生んだ逆説だった。(『母性のディストピア』395-396ページより引用)

アニメーション作品について長く論じているのも、「ゴジラの命題」を理解してもらうためには、読者にも虚構の世界に退避してもらって、一度現実のことを忘れてもらう必要があると思ったんですよ。