「子どもは純粋」のウソ

世間はとかく、子どもの世界を理想化したがる。「子どもは天使だ」「子どもの純粋な気持ちを大切にしたい」「子どもなりのバランス感覚を信じ、大人は余計な口出しをしないほうがよい」といった文脈で、きれいごとを語ろうとする。だが、何を美化しておるのだ。したり顔でそんなことを言う大人は、自分自身、そこまで立派な子どもだったのだろうか?

参考までに、私の幼少時代、自分や周囲の子どもたちがやっていたことを思い出してみよう。

・スーパーで集団万引き
・街中の自販機の下をのぞき込み、小銭を集める
・飲食店の裏に置いてあるファンタやコカ・コーラ、スプライトの瓶を盗み、酒屋に持って行って換金する
・プールや市民体育館のコイン返却式ロッカーをめぐり、残されたコインを盗む
・小6の時、裏ビデオを共働き家庭の家に持っていき皆で鑑賞
・父親のウイスキーを皆で回し飲みする
・エロ本が大量に落ちているという場所へ、皆で遠征隊を組んで取りに行く
・その現場に別の小学校の連中がいたらケンカになる
・差別的な内容のテレビ番組を観て大笑いし、該当するような生徒を翌日皆で笑う
・人種差別、障害者差別、貧乏差別を平然とする者もいる

所詮はこんなものだ。いずれも未熟さゆえの行動ではあるが、これらの行為はどう考えても「天使」ではない。まあ、「カネが欲しい」「誰かをバカにしたい」「エロいことを知りたい」という気持ちと行動が一致しているところだけは「純粋」かもしれないが。

大事なのは、いま一緒に仕事をしている人々

ここで私の身の上を振り返ってみるが、小学校は4年生まで川崎市立鷺沼小学校へ行き、5年生からは立川市立第八小学校に通った。中学校は同じエリアの立川第六中学校である。鷺沼小学校時代の知り合いには、今年、タイのバンコクでひとり会った。いわゆる幼なじみで、親同士の仲がよかった女の子だ。彼女は現在バンコク在住で、私もたまたま年末年始をバンコクで過ごすことになっていた。だから、直前にFacebookで連絡を取り合い、22年ぶりに再会したのである。その前に彼女に会ったのは35年も前だ。いまもつながりがある鷺沼小学校の知り合いは、他に誰もいない。というか、もはや名前さえひとりも思い出せないほどだ。

立川の小中学校出身者でいまでも接点があるのは、同じ大学・会社にいった男性ひとり、そして毎年結婚記念日にお祝いメールを送る女性ひとり。定期的にやり取りがあるのは、この2人だけである。それともうひとり、先日私がLINEアカウントを乗っ取られた(なりすまし詐欺に利用された)とき、「おい、お前、オレに変なメッセージよこすなよ! いやぁ、久しぶりだなぁ」と電話をかけてきてくれた男性がいる。

幸いなことに、私は子どものころ、立川の学友たちとよい関係を築けていたと思う。とはいえ、いま、彼らのことが大事か? と問われると、正直なところまったく大事ではない。むしろ大事なのは、現在仕事をしている取引先の皆さまがたである。一緒に仕事をしている期間が3カ月の人のほうが、小中学校時代の友人より大事なのだ。なにより「共通言語」が多い。率直なところ、業界関係者が集まる飲み会で初めて会った人のほうがはるかに話していて楽しいし、有益な情報を得ることもできる。