いま、世界で最も注目されている外務大臣、ボリス・ジョンソン。EU離脱派を主導し、次期首相最有力候補と言われつつ党内政治に敗れて失脚するも、新たに誕生したテリーザ・メイ政権で入閣を果たして世間を騒然とさせた。失言癖と派手なパフォーマンスで知られるジョンソンの就任に、メディアも国内外の外交筋は不信感をあらわにしたが、本人は「待ってました!」とばかり嬉々として世界を飛び回っている。彼が尊敬してやまないウィンストン・チャーチルも傲岸不遜、目立ちたがり、日和見主義者と首相に就任するまでの評判は散々だったが、絶体絶命の戦時下のイギリスで首相に選ばれたときに「私の人生はこのときのための準備であった」と感激して引き受け、国民的英雄となった。
チャーチルのことを強烈に意識していると思われるジョンソンが書き下ろした評伝『チャーチル・ファクター』は、今年イギリス国会議員の夏休みの読書としてもっとも読まれている本の一冊だ。本書では、チャーチルこそ統一ヨーロッパ運動の理念的創設者であったことが強調されている。だがチャーチルはこんな意味深長な言葉も残している。「イギリスがヨーロッパに限定された連邦連合のたんなる一メンバーであることは想像できない」。
ボリス・ジョンソン著『チャーチル・ファクター』から、“第20章・ヨーロッパ合衆国構想”を特別に抜粋してお届けする。
 

ヨーロッパのたんなる一メンバーではない

チャーチルの世界観では、イギリスは当然ながらヨーロッパの――おそらく最強の――大国だった。しかしそれはイギリスのグローバルな役割の限界を意味するものではなかった。たしかに彼は統一ヨーロッパを望んだ。イギリスには、これほどの悲惨を味わった大陸に幸福な連合をもたらすことを助ける重要な役割があると信じていた。しかしその役割とは、連合の契約当事者というより、スポンサー、つまり立会人になることだった。

イギリスは教会の中にいることを望みはしたが、結婚の当事者としてではなく、先導役、あるいは司祭を務めるつもりだった。チャーチルがイギリスをヨーロッパ連合の一部として見ていなかったという根拠は、彼の行動に表れている。彼が再び首相になったのは、シューマンプランをめぐるあの1950年の論戦のわずか数カ月後のことだった。もし彼が本当にイギリスを石炭鉄鋼共同体に加盟させたかったのなら、あのときに加盟申請をすることは間違いなく可能だったのである。彼には威信があったし、マクミランやブースビーといった人物の支持もあった。あの論戦で処女演説をした若きエドワード・ヒースも加盟を強く主張していた。

『チャーチル・ファクター』(ボリス・ジョンソン著・プレジデント社刊)

しかしチャーチルは権力を握るやいなや、実質的な掌返しをし、親ヨーロッパ主義がアンソニー・イーデンをはじめとする他の保守党員に人気がないことが明らかになるとすぐに熱意を失ったという人もいる。そうだとしたら、チャーチルは欧州懐疑派を懐柔するために意見を変えたジョン・メージャーのようでもある。私はしかし、この見方はチャーチルにとって、また、彼の掲げたビジョンにとって公正な評価だとは思えない。1950年6月27日の下院における重要な演説に立ち戻ってもらいたい。彼は演説で、自分のヨーロッパ観を全面的に繰り広げているのである。

彼はこの演説で、イギリス人が今日も抱いている不安の核心にふれた。すなわち「イギリスの正確な役割とは何か」。

私たちが自分自身のために決めなければならないことは――じっくり考慮するための時間は十分にあります――いずれヨーロッパ連邦のようなものが実現したとき、イギリスはそれとどのような関係を取り結ぶべきかということです。

それは今決めなくてもかまわないことですが、私は大いなる謙虚さをもって、明白な答えを提示します。私は今予見できるいかなる時期においても、イギリスがヨーロッパに限定された連邦のたんなる一メンバーであるということは想像できません。私の考えでは、障壁の除去、和解のプロセス、恐るべき過去の幸いなる忘却、そしてわれわれが現在及び将来直面する共通の危険などからこの大陸に発生するすべての動きをイギリスは支持し、その前進に貢献するべきであります。もちろん、ヨーロッパのための堅固で具体的な連邦憲章はまだ現実的ではありませんが、私たちはあらゆる方法を用いて、ヨーロッパ統一に向けての動きを援助し、主唱し、支援すべきであります。イギリスはこれと緊密に提携する手段を断固とした決意で求めなくてはなりません。