大久保利通(おおくぼ・としみち)
1830~78年。鹿児島生まれ。明治維新の指導者、政治家。王政復古のクーデターを敢行し、維新の功労者となる。その後、版籍奉還、廃藩置県、地租改正、殖産興業などを推進。官僚機構の礎をつくったといわれる。78年、士族に暗殺される。
心を奮い立たせる三カ条
図を拡大
心を奮い立たせる三カ条

大久保の2つ目の特徴である「権謀術数」は、幕末の風雲の中で磨かれていきます。この時期、生涯をかけて実現を目指す「富国強兵」を思い立ちます。

江戸幕府の大老・井伊直弼による安政の大獄で一時は抑えられていた攘夷派は、天皇を中心とした国づくりを目指す「尊皇派」と結びつき、あくまで幕府を中心に据えようとする「佐幕派」と対立するようになった。桜田門外で、佐幕派の親分である井伊大老が暗殺されると、尊皇派がぐっと力をつけ始める。

この時期、久光ら外様の殿様が集まり、朝廷と幕府が一体となるという「公武合体運動」が起こります。大久保はその事前工作のために京都に出ることになった。このとき一緒にいた薩摩の侍たちは、ほとんどが攘夷派。開国派であるにもかかわらず、彼らとも仲良くするのは、目的完遂のためにはあらゆる可能性を検討しようとする大久保らしい逸話でしょう。

公武合体運動は、朝廷の威光を背に徳川家の次の将軍として一橋慶喜擁立を促し、幕政の改革を雄藩連合がバックアップする体制づくりを目指しました。一種のクーデターです。薩摩藩は兵を率いて京都を目指します。その兵を率いたのが、大久保の盟友・西郷です。

西郷という男は、平時は邪魔、有事になると必要になる男だと僕は思っている。大久保は平時にも強いけど有事にも強い。大久保の権謀術数は、有事になると西郷をうまく使っている点にも表れています。

西郷は下関で後から来る久光を待機するよう指示されていたにもかかわらず、久光の到着を待たずに京都へ赴き、攘夷派の危険な浪人たちを取り締まった。これに久光は「あの野郎」と激怒して、西郷は遠島の刑を受けることになります。このとき、大久保は死罪になるんじゃないかと本気で心配したと言われている。西郷が月照という僧と自殺を企て、自分だけ生き残ったのはこのときです。

西郷が流罪になっているとき、有名な生麦事件が起きます。久光の大名行列をイギリスの商人たちが横切り、その行為を無礼として薩摩藩士が殺してしまった。このことをきっかけに、イギリスは薩摩藩に戦争をしかけた。この戦争で薩摩藩はこてんぱんに負かされます。大久保が「富国強兵」を目指すのはそこからです。