結局、公武合体運動は失敗に終わりました。これまで「開国」を進めようとしてきた幕府が、朝廷側の戦略にのって「攘夷」に豹変したのをみた大久保は、「こんな情けない幕府じゃ、合体したって意味がない」と考えを変える。薩摩藩が倒幕の意思を固めたきっかけをつくったのも、大久保だと言われています。

大久保の持つもう一つの特徴は、冷静な決断力です。

日本が「富国強兵」を実現するためには、権謀術数を駆使してでも自分が権力を握ることが先決だと大久保は考えます。権力を握るのに必要なのは、冷徹さ。義理人情や浪花節ではない。大久保は盟友・西郷に対しても、ときに非情な判断を下しています。

薩摩藩に続き、長州藩も下関でアメリカやフランス等の砲撃を受け惨敗、攘夷派と開国派とで内部分裂が起きます。幕府は、これを機にかねてから邪魔者だった長州藩を征伐しようと企てる。ここで活躍するのが、二度目の流罪から復職したばかりの西郷です。

このとき、大久保が西郷の復職に尽力したと言われていますが、どうも違うらしい。有事になり、薩摩藩では遠島中の西郷の力が必要だという機運が高まっていました。しかし、大久保は失脚した西郷をかばったら自分も危ないと考え、助け舟を出さなかった。

このあたりに冷静で冷徹と言われる大久保の気質がよく表れている。ただし、復活した西郷に対して手厚く支援しているところもまた、現実主義である大久保らしさなのです。

幕府は薩摩藩に対して長州征伐を「一緒にやろう」と持ちかけますが、西郷はこの要請を「幕府と長州の私闘である」と断る。薩摩藩と長州藩は坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、倒幕は佳境に入ります。その翌年の1867年、ついに王政復古の大号令が出され、約260年間続いた江戸幕府は終焉を迎えました。

大久保がその決断力を最も発揮し、功績を残すのは、明治維新のときです。

倒幕を果たしたものの、大久保の目指す「富国強兵」実現のためには、課題が山積みでした。ここで大久保は、大リストラを断行します。